『古代史逍遥』dropout

古代史についてのホームページを運営しています。このブログでは、HPに載せられない事柄や、ちょっとした感想などを自由気ままに書いています。もしかするとその中に、真実が隠されているかもしれません(^J^)

千葉県成田市・麻賀多神社本宮の新拝殿

f:id:hikona2:20180131023540j:plain

 

ここ数年に渡って関心を寄せている印波国造と多氏族。

その印波国造の創建である麻賀多神社

300年ぶりの拝殿の建て替えに、奇しくも時を同じくしたことに驚いています。

 

昨年2月から工事が始まり、

年末に完成しました。

今年の初詣は、この新しい拝殿で参拝しました。

 

f:id:hikona2:20180131030039j:plain

赤い建物は本殿。江戸時代のものです。

 

f:id:hikona2:20180131030145j:plain

拝殿屋根側面。ピカピカです!

 

これに伴いホームページの麻賀多神社のギャラリーに

本宮の画像を追加しました。

とりあえず報告まで…

麻賀多神社の詳細については、ホームページをご覧ください。

iniparu.jimdo.com

 

 

畝傍山北麓・山本町の八幡神社は神八井耳命の墓所なのか?

f:id:hikona2:20180122030226j:plain

 

前の記事で書きましたが、

ここの由緒によれば、

かつては「八幡」ではなく、「八井神社」と称し、

祭神は神八井耳命だとされます。

日本書紀』の「命が崩御すると、畝傍山の北麓に葬られた。」という記事と

符合します。

 

神武天皇陵の西500m位の所に位置し、

住宅地に隣接した山林の中に鎮座しています。

住宅地が近いとはいえ、

道路からは鳥居も社殿も見えない奥まった所にある極めて小さい神社…

近隣の人でもその存在を知らない人も多いのではないかと思われます。

 

以前、橿原神宮と明日香方面へレンタカーで行ったときに、

近いことはわかっていたので、

付近まで行ってみましたが、

はっきり分からず、

道も狭く入り組んできたので、

レンタカーをどこかにうっかり擦ったりしてはいけないと思い、

断念しました。

今回は近鉄橿原線畝傍御陵前駅から歩くことにしました。

所要時間はおよそ20分というところ。

駅から西へ伸びる道を進むと、

畝傍山の東側に沿って走る道路に出ます。

左へ行けば橿原神宮ですが、

反対の右へ進むと

左手に神武天皇陵への入り口が見えるので、

そこを入ります。

f:id:hikona2:20180122033903j:plain

  神武天皇陵への道

 

f:id:hikona2:20180122033928j:plain

  なんだか杉の葉がやけにデカい! Σ(゚Д゚)

  やっぱり神武天皇だから

  何か違うのか?!

 

そして神武天皇陵が見えてくる。

f:id:hikona2:20180122034316j:plain

 

しかし、今日の目的は八井神社なので、

御陵の近くまでは行かずに、

このあたりでカクっと左へ折れて、

山道へ入ります。

 

山道の途中に「スズメバチ注意!!」の立て札があり、

ヒヤヒヤしながら通り抜けると、

視界が開けて、住宅などが見えてくる。

神社はもう近いはず…。

Googleマップ頼りに、

その指し示す辺りから、

左側に広がる山林内に入り込み少し進むと、

果たして鳥居が見えました。

Googleマップ感謝!

こういうときは役に立ちます。

時々、最短距離を表示してくれようというあまり

要らぬ近道が表示され、

かえってわかりづらい事がある。

最短でなくていい、ごく普通の分かりやすいルートを!!

 

しかしこの度は、Googleマップのお陰で、

スズメバチ危険地帯を通ったものの、

迷うことなく目的地に着けました(^◇^)

 

f:id:hikona2:20180122040027j:plain

  社号も見当らないひっそりとした境内。

 

f:id:hikona2:20180122040123j:plain

  わりと新しそうな拝殿。

 

f:id:hikona2:20180122040221j:plain

   拝殿と本殿の距離はかなり離れています。

 

f:id:hikona2:20180122040351j:plain

    本殿手前のこれは?

    変形石宮?陽石?

 

ここから北方を望めば、

多神社のある方角です。

神八井耳命が創始し、

祭祀を行った地を見守る位置に

山本町八幡神社が鎮座しています。

 

今では「八幡神社」と呼ばれ、山林に眠る八井神社。

かつての名称と、ご祭神の伝承が

これからも語り継がれることを祈ります。

 

 

古代史に関するホームページを作成中です。

こちらも参考にしてください。

こちら

iniparu.jimdo.com

 

奈良県・多神社⑤  畝傍山と神八井耳命

f:id:hikona2:20180120125031j:plain

              多神社付近から見える畝傍山

 

 

以前、多神社の真東に三輪山が見え、

西に二上山が見えると書きました。

そして、もう一つ重要なのが南側の畝傍山

神社からは、木々などに遮られて見えませんが、飛鳥川の方へ出るとよく見えます。

 

神武天皇の皇子であり、多神社の創始者

神ハ井耳命は崩御すると

畝傍山の北麓に葬られたと伝えられます。

 

多神社のすぐ傍の飛鳥川のほとりから

畝傍山を望むと、

その意味が手に取るように

分かった気がしました。

「分かった」と言っても、

それはまだ感覚的なもの。   

しかし、この最初の感覚が大事なのです。

「現地を踏んでみないとわからないこと…」

それがこの感覚なのです。

畝傍山が多神社の南側にある…というのは、

現地を訪ねるまでもなく、

地図を見ればわかることです。

そこで、机上の理論をこねまわす事は

幾らでもできるでしょう。

そして、理論的に分かった気になる。

しかし、それには限界があります。

 

現地で実際に見て、

理屈無しに『ああ  そうなんだ」と思う感覚。

そこから仮説を立て、

実証の手立てを見つけていく。

そのような科学の方法を

私は採用しているようです。

ようです…というのもいい加減ですけどね (°▽°)

最初からこうするべきと思ってやっているわけではなく、気がつくと自分はそういうやり方をしていると‥

その程度のもんです。

 

さて、多神社から見える畝傍山を見て感じたのは、

「神ハ井耳命が畝傍山の北麓に葬られたという伝承は、なにがしかの史実を反映しているのではないか?」

「神ハ井耳命が皇位を弟に譲り、自らは祭祀者になったという話も、モデルとなった人物がいるのではないか?」

 

圧倒的な、畝傍山と多神社の位置関係を見て

すぐにそう思ったのですが、

「人物」という部分は「氏族」と言い換えてもいいかもしれません。

 

王になる力を充分有しながら、

それを他に譲って、補佐の道を選んだ者。

そのモチーフは、天孫降臨の時の

天忍穂耳命と邇邇藝命にも見出せます。

紀記神話には、同じモチーフが形を変えて

繰り返されている部分が多くありますね。

 

その力がありながら譲った氏族こそ

多氏族ではないかと思っているのですが、

いかがでしょうか?

因みに、以前の記事に書いた

多神社の祭神が

以前は二柱だった事についてですが、

男神の方が「天忍穂耳命」であるとする

資料があるそうです。

ここに、二つの事項の奇妙な一致が

見出せました。

 

さて、畝傍山の北麓の山本町

八幡神社がありますが、

ここはかつては

「ハ井神社」と言い、

祭神は神ハ井耳命であるとも

言われているそうです。

こここそが、神ハ井耳命の墓所なのか‥?

 

次回は、この山本の八幡神社について書きたいと思います。

 

古代史に関するホームページを作成中です。

こちらも参考にしてください。

iniparu.jimdo.com

 

 

 

 

コメント、ありがとうございました (^J^)

昨年末に、ブログを読んでいただいた方から、

ホームページの方にコメントを

いただきました。(多分そういうことだと思う…)

ありがとうございました (^◇^)

 

ホームページの方はしばらく開いていなかったので、

昨日やっと気が付いた次第。

どうもすみません。

 

はてなブログは、コメント機能がよくわかりません。

そういうことをあまり気にせず利用しておりまして、

ホームページの方も、

返信機能が無いようなので、

こちらでお礼申し上げます。

広島の方です。また、見てくれるといいのですが…。

 

広島に「多家神社」というのがあると教えていただき、

社名も大いに気なったので調べてみました。

深く調べたわけではなく、

多氏との関連が特にあるわけでは無さそうに見えましたが、

まだ分かりません。

神武天皇でのつながりは感じられます。

 

地元の歴史を調べている経験上、

一般に言われている由緒は

表層のみしか語られていないことも多いのです。

 

また、「東国はクナト系か?」ということについてですが、

クナト系ということは出雲系ですかね?

それも大変重要な事柄だと感じます。

 

それを書き始めると長くなってしまうので、

本日は取り急ぎ

コメントへの返信ということで…。

 

 

古代史に関するホームページを作成中です。

こちらも参考にしてください。

iniparu.jimdo.com

 

奈良県・多神社④ 小杜神社のことと太陽祭祀のこと。

多忙につき、前回から間があいてしまい、

どこまで書いたのやら…

 

多神社の境内または隣接する小杜神社の事を

書こうとしていたのでしたね(^◇^)

 

f:id:hikona2:20180108111339j:plain

f:id:hikona2:20180108111506j:plain

 

ご祭神は太安万侶

神社の横には、記念碑がドーンと建っています。

1979年(昭和54)に奈良県此瀬町の茶畑から

太安万侶の墓が発見されたので、

地域が盛り上がった結果、

このような記念碑が出来たのでは?と推測していますが、

あくまで推測。

記念碑の建立年は、チェックし忘れました。

 

しかし、元々の祭神は違うのではないかとする考えもあり、

私もそう考えています。

 

以前にも紹介した大和岩男氏の著述では、

小杜神社の東側の鳥居を多神社の東鳥居、

小杜神社を境内社として扱っており、

ど真ん中に三輪山が入る位置にあることから、

三輪山祭祀を意識したものではないかとしています。

小杜神社の祭神については、

また色々複雑であり、ここでは省き、三輪山に注目したいと思います。

 

多神社境内の由緒書きでは、

三輪山祭祀には触れていませんが、

大和氏は、多神社が三輪山のほぼ真東にあることを指摘しています。

そしてまた、多神社西側を流れる飛鳥川の方へ行くと、

西方に二上山を望むことが出来ます。

三輪山山頂から昇り、二上山へ沈む太陽祭祀

非常に相応しい場所に多神社はあるのです。

 

このような場所的な問題だけでなく、

多氏族は、三輪山と大きく関わっています。

なぜなら、始祖である神八井耳命の母は、

三輪山大物主神の血を引く姫だからです。

 

皇位を弟に譲り、司祭となった神八井耳命の祭祀対象は

記紀に詳しく書かれていないけれども

三輪山及び山頂から昇る太陽の祭祀を行ったのではないかと思われます。

 

f:id:hikona2:20180108120841j:plain

鳥居の中央に丸く見えるのが三輪山

 

f:id:hikona2:20180108120938j:plain

西側に二上山

 

f:id:hikona2:20180108121053j:plain

多神社付近の飛鳥川

 

太安万侶が、多氏族の出であり、

多神社の神官が太安万侶の末裔であることから、

どこかの時点で、

小杜神社の祭神とされるようになったのでしょうか?

確かに、古事記編纂者として著名な太安万侶を前面に出すことで、

分かりやすく親しみやすくなることは確かです。

 

古代史に関するホームページを作成中です。

こちらも参考にしてください。

iniparu.jimdo.com

 

 

 

 

 

 

奈良県 多神社③ 再び御祭神について。そしてヒメヒコ制のこと。

 

 

f:id:hikona2:20171220031933j:plain

多神社の祭神は、神武天皇神八井耳命、神沼河命、御姫神太安万侶と表示されていますが、大和岩男氏によれば、古い資料では、四柱ではなく、二柱になっているものがあると言います。

詳細は省きますが、それは男神一柱と女神一柱で、そう言うと夫婦神を思い浮かべますがそうではなく、母子神ではないかと言います。

 

母子神と推定するということは、女神の方が年嵩であるということ。

実はこの形こそ、古代の政治と祭祀を考えるときに重要なモチーフです。

いわゆるヒメヒコ制というもの。

巫女である女性の補佐により

王が政治を行う形…。

典型的なのが、今では日本人なら誰でも知っているであろう倭人

卑弥呼と男弟」の関係。

記述から、卑弥呼が鬼道を操り、それに基づき政治の実務を執り行うのは「男弟」と書かれている人物であろうと思われます。

 

邪馬台国の記述が記紀などの

史書に出てこないという謎。

しかし、これは謎ではない。卑弥呼を女王と解釈しているのでそれに該当する女性がいないだけです。

実は卑弥呼は女王では無かった。

魏の使者が女王だと思っただけだと思います。

しかし、それも無理はありません。

当時は巫女の託宣によって政治の方向が全て決まったとすると、あたかも託宣をする巫女が女王のように見えたんでしょう。

その時代が、記紀に名前を連ねるどの天皇の時代かは、ズバリと言えるものではありませんが、「男弟」というのはおそらく「古代の大王の誰か」にあたるはずです。

しかしまぁ、男弟なんて軽く書かれてしまってねー(^_^)

 

この関係を記紀に見える逸話で例に取ると、

倭迹々日百襲姫命崇神天皇

神功皇后仲哀天皇及び応神天皇

倭姫命日本武尊の組み合わせがあります。

邪馬台国九州説と近畿説の論争の決着は、何かの大発見がない限り、永遠につかないのだろうと思いますが、両地域で卑弥呼に相当すると考えられている女性達は、巫女と為政者という形において、その要素を持っていることになります。

年齢的にも、倭迹々日百襲姫命崇神天皇の叔母だと言われていますから、おそらく姫が年上。神功皇后仲哀天皇の年齢関係はわかりませんが、応神天皇の場合は母子となります。

倭姫命日本武尊の場合は巫女と為政者ではありませんが、日本武尊の活躍は、日神に仕える倭姫命の補佐が不可欠でした。そしてやはり、彼の叔母である姫が年上。

倭姫命は、天照大神に仕えるということになっていますが、古代において、

 その神が果たして天照大神だったのかは疑問があるので、敢えて「日神」としました。)

 

平安時代になっても、天皇元服して最初に選ばれる正后は、年上の女性が選ばれる習慣があったようで、それはその名残なのではと考えます。

 

更に、縁者の女性の補佐というのは、沖縄などの南方の風習でもあります。必ず年上の…というわけではありませんが、男子の女の同胞がオナリ神としてその人物を守護するのです。

 

さて、多神社の本来の祭神の二柱は、このような上代からの習慣を引き継ぐものとして興味深いと思います。

では、いつから祭神が増えて、社殿も四棟になったのだろう?

~それも大和氏の著書に書かれていたかもしれないが、忘れてしまい…。

 即調べ直す気力と時間が無いため、申し訳ないがパスします( ̄∀ ̄)

 

そして更に、いつのまにか五柱目のまろちゃんまで増えて…。

宿無しまろちゃん。

しかし実は、多神社に隣接し、境内とも言える場所に太安万侶を祭神とする小杜神社があります。宿無しでは無かった!

ところが、ここも本来の祭神は違うのでは?という疑惑あり。

でも、詳細は次回に致します m(._.)m

 

古代史に関するホームページを作成中です。

こちらも参考にしてください。

iniparu.jimdo.com

 

 

多神社② 「まろちゃん」に多氏族カラーを見る?

前回の記事の

多神社拝殿前に立っていた安万侶氏とは?

f:id:hikona2:20171218023339j:plain

太安万侶のキャラクターまろちゃんでした(^◇^)

 

拝殿全景 ↓

f:id:hikona2:20171218023710j:plain

まろちゃん二人いる…

 

はっきり言って、

大変ミスマッチなのですが、

反面こういうのも悪くないなとも思う。

 

そして、以前茨城県大洗町

行った時のことを思い出しました。

大洗町東日本大震災で被災し、

復興のためにアニメとコラボしており、

町中にアニメのキャラクターの

描かれたものが溢れていました。

ガールズパンツァーというアニメ。

大洗町が舞台なんだとか。

大洗磯前神社でも、

境内にアニメキャラの描かれた大絵馬が

掲げられていて、

それが不思議と違和感なかったのです。

寺社仏閣には古いものという

先入観は捨てないといけません。

とはいえ、最近はちょっとやりすぎ感の

ある場合も見受けられ…。

難しいものです "(-""-)"

さて、まろちゃんはどう評価すべきかな?

 

そして、大洗町

少なからず多氏族が関わっている事が

また興味深く思われます。

茨城県東南部は

多氏系の仲国造が開拓した地域。

大洗磯前神社の創建には、

国造の末裔が関わっている。

そこと多神社に

なんだか共通のノリを感じるのは、

偶然ではないのかも。

いわゆる多氏族カラーというものが

あるのでは?

そう言えば同じく茨城県東南部の

鹿島神宮祭礼にも

そんな気分があります。

特に3月の祭頭祭。

祭りの装束自体、

よくある日本の祭りのとはちょっと違い、

明らかに南方系のものですが、

それに皆思い思いの物をぶら下げて、

背中にもしょっている。

伝統的祭風のものもありますが、

それにこだわらず、

今流行りのものや、自分の好きなもの。

今年の祭りでは、

ミニオンズがいっぱいいた。

そして当然の如くアントラーズグッズ。

鹿を頭に被っている人。

その他、キティーやピカチュウ

伝統の継承だけではない、

現代も生きている祭り。

そんな感じがすごく好きだなー。

 

なんだか終盤は、

茨城県の話になってしまった (^J^)

ので、いっそのこと画像も載せよう。

 

鹿島神宮祭頭祭にて

f:id:hikona2:20171218032330j:plain

 

f:id:hikona2:20171218034534j:plain

 

f:id:hikona2:20171218034626j:plain

 

大洗磯前神社境内(2015年撮影)

f:id:hikona2:20171218034942j:plain

 

古代史に関するホームページを作成中です。

こちらも参考にしてください。

iniparu.jimdo.com