『古代史逍遥』dropout

古代史についてのホームページを運営しています。このブログでは、HPに載せられない事柄や、ちょっとした感想などを自由気ままに書いています。もしかするとその中に、真実が隠されているかもしれません(^J^)

奈良県 三輪山山麓 「玄賓庵」のこと

玄賓庵境内の神域・八大龍王三輪山弁財天の社

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能の演目「三輪」の舞台である玄賓庵を訪れた記録です。(訪れたのは5月でした。)

大神神社境内から山之辺の道を北へ辿り、、狭井神社を過ぎると、道は細い山道となります。

狭井川を渡り、左に「花もり」という茶店

ここのご主人からは色々な事を教えていただきました。

近くの八大龍王弁財天(玄賓庵の境内にある八大龍王とは別物です)は、

大神神社とは無関係で、何やら曰く付きの物であること。

確かに大神神社の案内図にここは一切載っておらず、

訪ねてみた感じでは、何かの新興宗教のにおいがしました。

玄賓庵に八大龍王と弁財天があることから、

双方から名を取ったものだと思われます。

そして、5月頃に咲く銀竜草のこと。

銀竜草は、普通はもっと標高の高い所に咲くものなのに、何故か三輪山麓の、特に崇神天皇を祀る天皇社の付近に咲くのです。

それが、5月半ばの今、ちょうど見られるということは、ここで教えてもらうまで知りませんでした。

     (この時点で、花もりの御主人を、恒例の「神の遣い」と勝手に認定!(^_^)/)

 

しかし、その詳細は後日にして、

この回は玄賓庵の紹介です。

 

奥に八大龍王弁財天のある岩坪(壺)池の辺りは、左右に繁る樹木が無くなり、

明るい空間が広がりますが、

ここを過ぎると再び小暗い道に入ります。

そして、次に視界が開けると、

左右に伸びる道があり、

右手が玄賓庵へと続く山之辺の道です、

石のゴロゴロした坂を上がって、

玄賓庵に到着です。

 

堂内の拝観も出来ると聞いていましたが、

人の気配もなくてわかりませんでした。

古色の漂う境内…

苔むした鳥居や石仏…

境内中央の護摩壇のある建物…

玄賓庵は、

神仏習合の色濃い不思議な空間でした。

以前はもっと三輪山寄りにあったこと、

玄賓僧都の経歴など、

書くべきことは色々ありますが、

とりあえず画像で雰囲気をお伝えします。。

 

 

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本堂と境内

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八大龍王

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十三重塔(鳥居が設けられて、どっぷり神仏習合の様相)

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三輪山弁財天(本宮は、茅原にある大神神社末社の富士厳島神社だと思います)

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境内中央にある護摩壇のある建物

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護摩壇(尊格は三輪山弁財天、三輪山八大龍王三輪山稲荷天。いわゆる神道護摩壇というものでしょう)

説明を見ると、ここでは八大龍王を八臂弁財天としているようです。

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奥の神域と対照的な整然と整えられた庭。

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海亀?

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ある夢の記録



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   成田市船形麻賀多神社境内・金毘羅神社

 

印象的な夢を見たので、奈良紀行を中断して、防備録として記します。

 

その前に、夢に出てきた場所について少し…。 

そこは千葉県成田市船形の麻賀多神社です。

その隣にある終末期方墳。

古墳中腹に金比羅神社がありますが、

そこが夢に出てきた場所です。

目覚めてから、これはかつてその場所にあった伊都許利神社なのではないかと思い、それはとても重要な事なので、忘れないようにここに記録したのです。

 

「伊都許利神社」は、昭和50年代に刊行された『千葉県神社名鑑』にもあり、社殿の写真も掲載されています。それがいつしか、境内社だった金比羅神社の方が前面に出たようです。

現在の社殿は石宮ですが、その回りにかつての伊都許利神社の物と思われる基壇の跡が見られます。

「伊都許利」とは印波国造伊都許利命の事で、この地域の古代の開拓者です。

その名を冠する神社が無くなってしまったのはとても残念(T_T)

金比羅神社もいいんですが、

この地の古代史への入口となる名称は

残して欲しかったと常々思っているのです。

 

   『千葉県神社名鑑』の伊都許利神社の記載です。
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夢~場面①

目が覚めると朝日に照らされた小さな祠が見えました。

(自分はそれを斜め上から見ている。)

年季の入った木の祠です。

それは、神社の境内にある古墳の中腹にある金比羅神社のある辺りのようでした。

(現在の金比羅神社は、石のお宮です。)

祠は小さいながら、階や欄干なども作られて、彫刻で細かい装飾なども施されているようでした。

光はちょうど祠に射して、辺りは柔らかい光に包まれていました。

 

~場面②

急に情景の角度が替わり、先のお宮の奥に空間が現れました。

実際の金比羅神社の脇に石宮が幾つか並んでいるところがありますが、それはその辺りのようでした。

しかし、空間はもっと広く広がって、先の祠と同じような祠がもう1つ見えました。

石宮達の背は、古墳の墳丘にもたれるようになっていますがそれは実際の状況と同じです。

でも、夢の中の古墳は、土のむき出しではなく、白茶けた色の何かで覆われていて、コンクリートで固められてしまったのかと思いましたがそうではなく、もっと柔らかい何かなのでした。

自分のいるところがどこなのが不明ですが、脇に窓枠のようなものがあり、そこがキラキラ光っているのでよく見ると、それはうっすら積もった雪のようでした。

ああ今朝は少し雪が降ったんだ…と思ったところで、夢は終わりました。

 

『千葉県神社名鑑』掲載の社殿は、夢に出てきた物とは少し違いますが、夢の場所は確かにその場所であり、淡い光に包まれたその光景は、目覚めた後も大変重要な物として深く脳裏に刻まれました。

 

繰り返しますが、これはただ自身の防備録です。

夢の部分は非常に個人的な内容ですが、かつて伊都許利という名の神社があったということを多くの方に知って頂きたいのです 。

!( ̄- ̄)ゞ


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古墳は、伊都許利命の墳墓であると伝承されて来ましたが、

年代的には初代国造とは年代の合わない7世紀のものです。

なので、「伝」という文字を付けて紹介されています。

しかし、国造の末裔、

もしくはこの地で多大な影響力を持った者の

墳墓であることは間違いありません。

 

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能『三輪』のこと

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前回の記事で触れた能の演目「三輪」について言及しようと思います。

先ずはあらすじ  ↓

三輪山の麓で庵を結んでいた僧玄賓の許へ、

仏に供える水を持ってやってくる女性がいた。

実は彼女の正体は三輪明神

神が姿を変えてやって来たのであった。

僧都の貸した衣が三輪明神の門前の杉の木にかかっていたことから、それが判明する。

~わが庵は  三輪のやまもと 恋しくば   

    とぶらひ来ませ  杉立てる門~

これは、古今和歌集所収の歌で、能『三輪』では、三輪明神の化身の女が詠んだ歌として使われている。

 

場面は変わり、三輪山の麓に佇む玄賓僧都の前に、女姿の明神が現れる。

三輪明神は、遥か神代の物語、岩戸隠れと三輪山の神婚譚を舞い語り、やがて幽玄の中へ消えて行く。

 

ここで重要なのは、最後に語られる三輪明神の文言です。

思えば伊勢と三輪の神、思えば伊勢と三輪の神、

一体分身の御事、今更何と磐座や…」

~伊勢の神と三輪の神が本来は同神であることは周知のこと。

今更敢えて言うまでもないことだ。~

と、神の降臨する「磐座」にかけて言っているのです。

 

能「三輪」は、作者不明ですが、

古い部類の作品だと言われています。

その当時、伊勢と三輪の神が一体であることは、

ごく普通に受け取られていた事が伺えます。

伊勢の神に関する逸話で、

斎宮の元に神が通った翌朝

床に鱗が落ちていた…」というのがありますが、

これはもうまさに、

蛇神でもある三輪山の神ではありませんか!

そもそも、女神であるはずの

伊勢の神に

なぜ神妻としての斎宮がいるのか…

 

伊勢に祀られたのは、

大和で祀られていた太陽神。

すなわち三輪山の神だったのです。

 

写真は昨年夏、

国立能楽堂での「能楽BASARA」の

公演パンフレットから。

式神神楽という小書の付いた演目でした。

 

大神神社の春の大祭では、

毎年『三輪』が奉納されます。

こちらの方はまだ見たことがありません。

まさに演目の舞台である三輪山の麓で行われる「三輪」!

いずれ是非とも見たいと思います。

 

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檜原神社にて、あれこれ思う

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  檜原神社・三つ鳥居

 

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一連の奈良旅行の予定には

吉野の天河大辨財天社も入っていて、

ここは「呼ばれないと行けない。」とかよく言われる。

しかし、ひねくれ者の私としては、

「あれだけ交通の便の悪いところにあるのだから、

ほんの少し番狂わせがあったりすれば、

行けなくなることもあろうな!」などと思ったりしている。

そしてとりあえず、

今回自分がなかなか行けなかったのは、

天河大辨財天ではなく、

まさかの檜原神社だったのだ!

まず最初に三輪山方面を訪ねた時は、

初日から石見と田原本で予定がずれて、

順繰りにずれ込んでいったので、

結局最終日の朝から参拝するはずだった大神神社

午後からとなり、

狭井神社までしか行けなかった。

次の機会には、

前回の投稿で書いたような事態となり、

結局檜原神社までは行けなかった

 (´・ω・`)

うーん。理由は少~しわかる気がする。

何故なら、本当の笠縫村は檜原神社あたりではなくて、

田原本の多神社付近なのではないかと思っているからだ。

実際、近鉄橿原線笠縫駅は、

多神社の最寄駅で、

檜原神社の地からは離れている。

天照大神が最初に鎮座された笠縫村が現在の檜原神社だと

言われているのに、

なぜ笠縫駅は、だいぶ離れたここなのだろう?と

疑問に思ったものである。

しかし、色々調べているうちに、

やはり笠縫村は檜原神社付近ではなく、

本当に今の笠縫駅近くなのではないか?と思い始めた。

そしてそれは、多氏族とも深く関わるものである。

その理由だが、

話出すと長々となってしまうので、

ヒントとなる事項を列挙するから、

後は各自で考えてください。(なげやり…(^▽^;))

持統天皇以前の天照大神は、

 現在の伊勢内宮の女神と同じとは

 限らない。

天武天皇が伊勢に奉斎したのは

 元々大和で祀られていた日神である。

③大和の元々の日神とは、三輪山の神ではないのか?

三輪山の神は、本来昇る太陽に関わる日神である。

⑤多神社は三輪山二上山の間に位置し、

 太陽祭祀に深く関わっていると思われる。

⑥最初伊勢に祀られたのが、

大和の古来からの日神ならば、

多氏族は、伊勢にも深くかかわるであろう。

⑦三輪の神と伊勢の神は、実は同体である。

 

⑦に関しては、能の演目『三輪』の終盤に

同じ文言が語られて、

そういう認識が古来からあったことがわかる。

また、笠縫村が多神社の付近だという事を表すものが

実際現地にあった。

それは、多神社の東側に少し離れてある姫皇子命神社である。

ここは、多神社の摂社であり式内社でもある重要な社だが、

「ここが天照大神の最初に祀られた所」だという伝承を持つ。

 

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このような事をつらつら考えていたので、

檜原の神様は、

「ちょっと遠回りさせてやろう」と

お考えになったか…

 

だからといって、

檜原の地が重要でないわけではない!

鳥居の真ん中に

西方の二上山がすっぽり入るのは

周知の事。

ここも三輪山二上山に関わる

太陽祭祀の地であるには違いない。

ここに檜原神社があるために、

伝承の笠縫の地はこことされてしまい、

定説になっただけなのでは?

整理してみると、

まず件の日の神は、

当初は「多の地=現在の笠縫駅の最寄り」に

祀られ、

その後三輪山山麓に移った。

とそんなこんなを考えつつ

三度目の正直で

やっとたどり着いた檜原神社は、

とても清々しい明るい空間だった。

勿論、西方に見える二上山のシルエットも確認。

でも、ありがちな鳥居越しの撮影は

敢えてせず (  ̄▽ ̄)

 

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三輪山山麓にて。OH 神よ!の大鳥居。

f:id:hikona2:20180912201223j:plain  山の辺道・岩壷池付近

 

今回は非常に個人的な体験談であるということを

予めお伝えしておきます(  ̄▽ ̄)

 

三輪山山麓を二回目に訪れたときの事。

前回は大神神社狭井神社を参拝したので、

今度は、狭井神社から山之辺道をたどり、

桧原神社まで行こうと思ったのです。

しかし、昼過ぎて奈良に到着し、JR桜井線で三輪駅に着き

、当然まず大神神社に参り、そうするとついつい予定以上に長居して、

それから狭井神社に移動した頃には、

結構いい時間になっていました。

 

狭井神社を参拝後、

~さてさて時間的にはもう夕刻と言っていい時間。

でも空はまだ明るいし、これから出発しても桧原神社まで

なんとか行けるのではないか~?

と思ってしまったのがいけなかったのです。

 

本当に空はまだまだ明るかった。

そして、途中の貴船神社を参拝し、その先に何やら気になる赤い鳥居。

八大龍王弁財天と掲げられている所ですが

、ここにも行ってみたので、更に時間が経ってしまいました。

※この八大龍王弁財天社ですが、この後様々な情報が入り、

色々と議論がされる問題の社だということが判りました。

これについては、また後ほど…

 

さすがに、空もやや暗くなって来まして、八大龍王弁財天を過ぎて少しすると、山之辺道は上を鬱蒼とした木々に覆われた山道となります。

これはやっぱり、もう無理なのではないか?と思っていると、

道はまた少し開けた場所に出ました。

右手の坂を登った所に見えるのは、玄賓庵の屋根でありましょう。

ここまで来れば、桧原神社もそう遠くないはず…。

空の見える道に出たことにより、

またまたそんな風に思ってしまったのがいけなかったのです (-.-)

落ち始めた陽というのは、本当に速い!

季節は秋ではなかったけれども、正に釣瓶落とし

玄賓庵への坂を上っているうちに、みるみる暮れてしまいました。

そして、前方を見れば玄賓庵のその先は、

またもや木暗がりの道になるようです。

そんな道はすぐに真っ暗になってしまうでしょう。

さすがに、この日は諦めて、玄賓庵の反対側の山之辺道から外れるルートに入り、

三輪駅方面に向かったのです。

ところが、落ちる陽は加速度を増して暮れて行き、

民家のあるところに到達する前に

辺りはすっかり暗くなってしまいました。

山之辺道を外れたとは言え、農道のようなその道は

前方がどう繋がっているのかも未知。

街灯もポツリポツリとあるだけ。

こういう道って、急に先細って途中で消えてしまったり、

山の方に入っていってしまうのではないか?

さほど遠くない所に、民家の明かりらしき物が見えてはいるが、

果たしてそこへたどり着けるのか?

三輪山麓で遭難!

そんな不名誉な文字が頭に浮かんだりして、

そんなことになったら、三輪の神様に申し訳ないと思うし、

ずんずん歩きながら生きた心地がしませんでした。

そんな時、目に飛び込んで来たのが大鳥居の姿だったのです!

シルエットで浮かび上がった鳥居の姿がなんと有り難かったことか!

もう本当に「おお 神よ!」でしたよ。

 

見えた鳥居の位置から、

進んでいる方角は間違っていないということも判りました。

今思うと、道が町中にちゃんと繋がっているかというのが

真に重要な問題だったのですが、

鳥居が見えたことによって、何故かもう大丈夫と思ってしまった。

実際大丈夫だったので良かったが… (^-^)/

 

鳥居が見えて間もなく、道幅が広くなり、

ちょっとした橋を渡ると、そこはもう住宅地でした。

住宅地の端の田んぼ沿いの道を通り、

やがてJRの線路の所へ出ました。

写真は、その田んぼの所から撮影した大鳥居の姿。

oh 神よ!のお姿であります。

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 不鮮明な画像で申し訳ありません (´・ω・`)

 

 

この後この事を教訓に、

もう少し行けそうと思っても、

ムチャするのはやめることにしました。

何でも時間いっぱい目一杯やってしまう質なので…。

このように切り替えた事によって、

その後何回も助けられたのであります。

これも大神様からいただいた御教示と思い、感謝です。

 

さて、後日談。

次に訪れた時、玄賓庵下からのその道を、

明るい時間に辿ってみました。

勿論その時は、桧原神社と玄賓庵へも行けました。

すると、あの時とても長く感じた道のりは、

それほどでもなくて、住宅地への境目には素麺工場があり、

途中には果樹の植わっているような大変長閑な明るい道。

そして、一番驚いたのは、

最初に大鳥居が目に入るその地点から見える鳥居が、

思ってたよりずっと小さかったこと!

記憶の中では、とても大きなシルエットが目の前に現れたような

気がしていたのです。

その時に大きな存在であったものは、大きな姿で記憶される…

人の感覚とは不思議なものですね (゜ロ゜)

 

実はこの道、

その後にひょんなことから知った、

三輪山の重要箇所の近くでした。

それは大神神社の摂社「神御前神社」と

末社の『富士神社・厳島神社」です。

「神御前神社」の御祭神は、ヤマトトトヒモモソヒメ、。

「富士、厳島神社」の厳島の御祭神の市杵島姫は

三輪弁財天とも言われ、

狭井神社の手前にある「市杵島姫神社」は、

ここから勧請されたものであり、

玄賓庵の境内には、「三輪弁財天」の社があります。

これらについてはまた後ほど…。

 

 

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奈良県 三輪山にて。大鳥居と一の鳥居のこと。

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さてさて、多忙の上に猛暑!

すっかり更新が滞ってしまいました(-_-)゛

どこまで書いたのだったか…

自らの記事を復習する。

そうそう、大神神社の三つ鳥居を拝観したところまで書いたのでした。

その後、話はヤマタノオロチの事や、出雲の事となり…

よくわからなくなったので、項目に③とか付けるのは止めました(^^)d

 

今日は大鳥居の事を書きましょう!

この鳥居に大変な恩恵を受けたのです。

それは極めて個人的な事情ですが。

 

まずは、大鳥居の紹介から。

 

桜井市埋蔵文化財センターのある国道169号線の三輪参道入口交差点を大神神社の方に入ると、この大鳥居を潜ることになります。

○昭和61年竣工

○高さ32,2メートル、柱間23メートル

       ※熊野本宮旧社地「大斎原」の鳥居に次 ぐ 大きさです。

○材質   耐候性綱板

○耐久年数   1300年

     勿論、対地震対策も施されているとの こと。

 

足元のコンクリートの台座部分の大きさだけでも圧倒されてしまう巨大さ!

それ故、これが大神神社の一の鳥居と思っておられる方も多いと思いますが、一の鳥居は別にあります。

竣工されたのも昭和61年と新しい事にお気付きでしょうか?

 

一の鳥居は、国道から参道を神社に向かうと右手に見えてくる「大神教本庁」の敷地を抜けて県道199号線に出る所に立っています。

二の鳥居を少し小振りにしたような木製鳥居がそれです。

実は、この鳥居が面した道こそ、旧伊勢街道。ここから榛原方面へ向かい伊勢へと向かいます。

この街道に面した一の鳥居をくぐるルートが本来の参道です。

一の鳥居から少しの所に、摂社の綱越神社があります。

ここは、祓戸を祀る所ですから、ここで穢れを祓ってから参道に入り、神社へと向かったのでしょう。

それを知ってから、この本来のルートで参拝してみました。

皆様も大神神社参拝のおりは、是非このルートを辿って見て下さい!

 

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    大神神社・一の鳥居

  奥に見えるのは、大神教本庁の建物。

 

 

さて、新しく造られた、一の鳥居ではない大鳥居ですが、その偉容はまさに大神神社にふさわしいと言えます。

昔からあった物が、その時を待ちながら存在し、時を得て今姿を現した…そんな感じさえして来ます。

耐久年数1300年…

どのような世になっているのか。

逆に辿れば、1300年前は?

ちょうど古事記風土記の編纂が始まったころです。

なんと遥かな時を経たことでしょう!

1300年後の大鳥居の新調。

そんな光景を見てみたいものです ( ̄▽ ̄)

 

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ヤマタノオロチ異見。

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古代史を語るとき、

「出雲の謎」というものが必ず浮上して、

色々な方が取り上げて、様々に言及されています。

しかし、これまでタイトルに惹かれて読んだものは、

極端にドラマチックな解釈だったり、

センセーショナルに過ぎたり、

確かに面白くはありましたが、

思い返すと、

出雲の土地そのものについて如何に学んでいなかったかに気付く…

 

極端な解釈と思われるもの。

例えば出雲大社のご祭神が、

拝殿の参拝者に対して正面を向いておらず、

西を向いていることが殊更に誇張され、

大国主命が滅ぼされた側の神だから祟りを恐れ、

参拝時に対面しないようにしてあるとかいうことが言われたりしますが、

実は記紀によれば勝者である武甕槌命を祀る鹿島神宮も同様です。

出雲大社とは逆に北面している社殿のご祭神は、

東向きに坐しておられ、

参拝者は横顔を拝することになります。

御祭神が、南面する社殿で西を向く出雲大社と、北面する社殿で東を向く鹿島神宮は見事な対称を成しています。

この事実からこの両神社の様式は、

大和の政権の確立後に計画的になされたのだと予想できます。

その証拠に、出雲大社鹿島神宮は殆ど同じ緯度の東西にあり、

見事な計画性が感じられるのです。

東の鹿島は昇る日を、西の出雲は日没を象徴しているようです。それ故、御祭神はそちらの方角を向いている。

すごく分かりやすいではないですか?

両地域で元々前身となる神があり、

奉斎氏族が服属後に、中央政権の意向に沿った役割が与えられたのでしょう。

そして、元々の祭神の性格と昇る日のイメージから鹿島の神が華々しい勝者となり、沈む日の出雲の神は一歩退き、冥界を司る神となった。

あるいは常陸地方の方が早い時期に、政権に組み入れられたのかもしれません。

そう考えるならば、紀記の神話はやはり、各地の神々を役者とした創作です。

武甕槌命が勝者で大国主命が敗者になってはいるけれども、実際は両地域で起こったことは、経緯の違いはあれ「地方豪族の服属」という同様のものだったのでは?

実際、「武甕槌命」と「大国主命」という神名は常陸国風土記出雲国風土記には一切登場しないものです。

新しい史書や役割のために新たに創作されたのでしょうか?

因みに、古事記では更に「武甕槌」という表記はせず、一貫して「建御雷」の表記を用いていて、これはまた重要な意味を秘めているのですが、それはまた別の機会に…。

 社殿に関しては、鹿島神宮天智天皇の頃に社殿を造ったという記述が風土記にあり、同じく風土記の記述から元は別の場所だったのではと思われ、出雲大社の方は「大社のある地は新開発の地で、少なくとも古事記の成立以前に出雲大社があったとは思えない」と鳥越憲三郎氏が著書で言っています。

 この鳥越憲三郎氏の著書というのは、講談社学術文庫の『出雲神話の誕生』です。出雲地方の様相や、風土記の舞台となった地についての客観的な分析があり、有用なのですが、最初の刊行が1966年と古く、注意を要します。何故なら、あのセンセーショナルだった荒神谷遺跡の発見前だからです。

発見前と発見後では、見解は大きく変わるはず。

鳥越氏は本著書の中で「出雲は実は地方にどこにでもあったような小国」と述べていますが、荒神谷遺跡等の発見によりそれは訂正されるべきものになりました。

 

また、ごく最近読んだ高山貴久子氏の『姫神の来歴』は、これまでの紀記を元にした見解からはかけ離れた驚くべき内容でしたが、先述の“殊更にセンセーショナルな見立て“とは一線を画したものです。

何よりも著者が出来る限り現地へ足を運んで、机上の理論となっていないことに共感を覚えます。

 

その中の出雲に関する部分では、ヤマタノオロチこそ実は出雲の大王であり、記紀では敢えて怪物ということにされたものであり、クシナダヒメはその王(=神?)に仕える女性だったとする件は、ちょうど自分が以前の記事に書いた「甕に酒を入れて飲ませる部分は、本来は神祀りの光景だった…」というのと符号して、このグッドタイミングに驚きました!

高山氏はクシナダヒメを「出雲の大王の妻」としていますが、もしそれを極論と思うのならば、「大王の傍らで神に仕える巫女」としてもいいのかな?と思います。

そしてその大王を殺害し、出雲の土地を我が物としたのがスサノヲノミコトだというのも、紀記の神話や系図の矛盾点等を考えると非常に納得のいくものです。

実はこれを読む前、「出雲の大王を滅ぼしたのがスサノヲノミコトである」という同様の記述のあるブログを読み、これは一理有ることと思ってはいましたが、そこでは「スサノヲ=徐福」そして次々と名前を変えて「=二ギハヤイ」であるとも言っています。

これは斎木雲州という方の見解を元にしているようですが、斎木氏の著作はまだ読んでいませんので、今のところどう評価すべきかわかりません。読んで見なければと思います。

 

このように同要素を持つ事柄が、奇しくも同じ時期に自分に降りて来ました。

高山氏の著作はお勧めです。興味がおありでしたら是非読んでみて下さい。

ただ、続編の構想もありながら、著者は故人となってしまったようです。

とても残念に思います。

 

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付箋だらけ…( *´艸`)

 

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