『古代史逍遥』dropout

古代史についてのホームページを運営しています。このブログでは、HPに載せられない事柄や、ちょっとした感想などを自由気ままに書いています。もしかするとその中に、真実が隠されているかもしれません(^J^)

時を越えてつながる。かも…常陸、鹿島地方との関係。

 

hikona2.hatenablog.com

 

船橋市飯山満にて…の続きです。

10数年以上の時を経て船橋市飯山満を再訪し、改めて感じた大きなつながり。

前回提出したキーワードのひとつ、“南西向き”ということですが、

八幡神社と、大宮神社が南西向きだったのです。

これが何故重要なのか?

現在私は、古代史の探求に勤しんでいますが、

古代に千葉県北部を治めた印波国造の事から出発しています。

色々調べが進むと、出土品からわかる茨城県東南部との関係、

常陸那賀国造との関係が浮かび上がるとともに、

実は鹿島神宮との関係も深いのではと

思い至りました。

いや、鹿島神宮…と言ってしまうと

ちょっと違うのかもしれません。

正しくは、常陸国風土記「香島の大神の社」

と表現されている、

言わば鹿島神宮の前身です。

鹿島神宮の管理氏族は

中臣氏物部氏と思われがちですが、

それは8世紀初頭以降の事。

鹿島・香取の両社に東北経営の

前線基地的な意味合いがより強くなってからの

比較的新しいことです。

それより以前、上代に列島の東端の地に

“香島大神”を奉斎したのは、多の氏族でした。

そのことは、大場磐雄先生大和岩男先生

論文や著書に書かれておられます。

(私は、中臣氏も古代の多氏から派生したと

思っていますが、話がずれるので、

ここではパスします。)

 

まあ、前置きが長々となりましたが、

大和岩男氏の著作に鹿島神宮と、

潮来市大生神社及び千葉県香取市大戸神社との

位置的関係を述べたものがありまして、

それは、両神社が鹿島神宮に対してそれぞれ、

夏至の日没の方角と角冬至の日没の方角に鎮座している

というものです。

すなわち大生神社が夏至の日没、

大戸神社が冬至の日没です。

それを読みながら、私はふと気付きました。

成田市麻賀多神社冬至の日没ラインにあることを…。

これは、やみくもに位置だけの問題だけで

言っているのではありません。

麻賀多神社創始者は、

多氏族の出身とされている印波国造だからです。

大生神社は、言うまでもなく多氏族と関わりがあり、

多氏族の墓域の一つである大生古墳を控えています。

大戸神社も、鹿島神宮とは切っても切れない関係にある

香取神宮の摂社です。

現在の祭神は、手力雄命ですが、

大和岩男氏によれば天鳥船命だったことがあるらしい。

天鳥船命は、鹿島神宮の摂社と言ってもおかしくない

息栖神社の祭神の一柱です。

このように、多氏族つながりの神社が、

レイラインに沿って並んでおり、

その一方の冬至の日没ラインの延長線上に

麻賀多神社はあったのです。

これは、全く偶然とは思われません。

 

麻賀多神社は、成田市佐倉市富里市

酒々井町八千代市にまたがって20社あります。

(資料によって、18社とか19社とかまちまちですが、

近年再建されたものもあり、20社が確認されます。)

この20社の並び方ですが、

俯瞰すると北東から南西向きに

斜めのラインを描いて並んでいます。

また、全20社を踏査したところ、

多くの社が南西及び西向きに

社殿が建てられていました。

       ※ホームページはこちら⇒麻賀多神社の解説とギャラリー - 古代史逍遥『印波国』から

そして、すべての社は水域を望むように

建てられています。

(水域は、昔より縮小していますので、

ここではかつての水域も含みます。)

実は、ここにも大きな意味があり、

このことから、「これらの南西に向って並ぶ社の役割」が

何なのかも予想しているのですが、次行きます!

さて、このラインの更なる延長線上に

位置するのが船橋です。

船橋で著名な神社と言えば、船橋大神宮ですが

この呼び方は通称です。

正式名は「意富比(おほひ)神社」と言います。

「意富」は、まさに多氏を表す語であって、

先に挙げた大場先生をはじめ、相当数の方が

「多氏による創建である。」と述べておられますが、

確証となる文献資料がないために、

確固たる定説となるのが難しいのでしょうか?

しかし、上に述べた位置関係から、

私はこの説を絶対的に支持するものです。

 

さあやっと核心の部分であります!

意富比神社によって、冬至の日没のラインが

東京湾岸まで伸びたわけですが、

飯山満の八幡神社及び大宮神社もまた

このライン上にあるのです。

それは地図を見て、すでに気付いていましたが、

社殿の向きや周囲の地形を改めて確認せねば。

“南西向きであるか?” “水域に面しているか?”

それは、薄々そうではないかと思っていました。

なにせ、かつては時々近くを通っていたところですから。

そしてこの度、確認した社殿の向きは

見事に南西を向き、

その方向はかつて水域だったと思われる

低地だったのです。

昔にかなりのインパクトを受けた場所が、

数十年の後にかくも重要な場所として立ち現れるとは!

神社の創建年代を無視しているじゃあないかと

言われそうですが、

麻賀多神社20社を巡ってみて思うのは、

一応江戸時代の創建」ということになっている所でも

、実は前身はもっと古くからあったのではないかという事です。

何故なら、長い間に人々の信仰意識も変化したり、

戦乱があったりして、特に村の小さい社などは

一度消えてしまったものも多いのではないかと思うのです。

しかし、かつての聖地は

人々の脳裏から全く消えたわけではなく、

時代が落ち着くと再びその場所に

なにがしかの聖地が設けられた。

しかし、元々何が祀られていたかが

分からなくなってしまった所も

多いのではないでしょうか。

そういうところには、

その時の願いにあった神仏が

新たに勧請されたのだと思います。

 

そして、重要なのはこれだけではないのです。

ただしこれは、、個人的な事です。

実は、自分がこれまで

比較的長い期間を過ごした場所が悉く、

現在の古代史に関する活動に関わって来るという事実。

特に成田と船橋

船橋は意富比神社だけだと思っていましたが、

住んでいた場所に更に近い飯山満もだったのです。

そして「もしかして渋谷もなのではないか」と、

最近思っているのです。

 

鳩の絵と白蛇の神についてはまた後日。

 

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鹿島神宮・奥宮

 

 

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