『古代史逍遥』dropout

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大井神社と私1 重要な境内社「元宮 意富比神社」の発見。

水戸市飯富町・大井神社。

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ご祭神は建借馬命。

何だかわからない縁のある所である。

 

建借馬命は多氏族で、那賀国造の祖。

系図では印波国造伊都許利命の祖父である。

印波国の事を調べているのであれば、

当然訪ねるべき所であるから

一昨年だったか、

参拝したのであった。

古代史探求に必要だから行った…

つもりであった。

ところが何か気にかかる。

前にも来たことがあるのではないか?

いや、気のせいだ。関心を持っている所なので、

そういう感じがするのであろう。

 

しかし、次に訪ねた愛宕山古墳と

墳頂に鎮座する愛宕神社

ますますそれは、濃厚となった。

ここも来たことがある。

まず、古墳からだいぶ離れた所に、

金属製の鳥居があり、

傍らに「愛宕山古墳」と書かれた石柱が

立っている。

そうだ。以前来た時これを見て、

目的地はすぐそこだろうと思いきや、

それからまたしばらく住宅地の中を歩いたのだったっけ…

間違いない!

古墳下の道路から見る墳丘と、

愛宕神社の社殿の屋根が見えるこの感じも

記憶にある。

時々脳裏に浮んで、あれはどこだったんだろうと

思っていたその場所が、ここだった。

しかし、てっきり家からもっと近い所だと

思い込んでいた。

わからないわけである。

でも、何故水戸に来たという記憶がないのだろう?

おそらく数名で来て、

道中は人におまかせだったので、

そうなったのだろうが…

 

愛宕山古墳に来たなら、

やっぱり大井神社にも来ているに違いないと思いつつ

その日は帰途につく。

 

そして、再び大井神社を訪ねた時、

今度こそ圧倒的にわかってしまった!

絶対に以前にも来たことがあると…

その時は、前回は行かないにしてしまった最奥の

神宮寺跡や芭蕉の句碑

愛宕神社愛宕山古墳の愛宕神社と紛らわしいが、

大井神社境内にも愛宕の小祠があるー

そこまで行ってみたのである。

 

神宮寺跡は、草の茂る広い空間になっていて、

そこから見上げる小高い所に

愛宕神社の赤い鳥居が

茂る木々を透かして見えるその光景。

窪地になっているので、

斜面を上ると、後ろの畑に出るが、

そこから斜めに射してくる日の光。

広場の向こうの隅にある廃屋。

全部見たことがあったのだ。

 

これは、一種の衝撃である。

しかし、この現象はこの二か所だけでは無かった。

現在の探査対象である所の実に多くが、

以前にも来ていると判明することとなる。

簡潔にリストアップすると、

日立の大甕神社、水戸の吉田神社吉田古墳

くれふしの丘古墳公園大洗磯前神社

近いところでは、鹿嶋市高天原と鬼塚一帯

鹿嶋市宮中野の夫婦塚古墳下津海岸

鹿島神宮西の一の鳥居坂戸神社沼尾神社

潮来市大生神社

いずれも、多氏族や鹿島の神などを介して

関連する所である。

因みに先程の愛宕山古墳は、

建借馬命の墳墓とされている古墳である。

鹿島や潮来は近いので、

そういうこともあろうと、

気持ちに折り合いを付けていたが、

水戸まで行って、何故確かな記憶がないのか。

まるで、何者かにいったん記憶を消されたのではないかと

思ってしまうこの状況。

まっさらな状態で、今一度見よ!と言わんばかり。

 

頭がおかしいのではないかと言われそうだが、

どこに行ってもそうというわけではない。

別段奇異な感覚もなく、

たいていは通常の参拝、観察を

ごく普通に済ませて来るのだから。

 

船橋でも、そういう所があったが、

ここは長らく住んでいたので、

そこはそういうこともあるとしよう。

一応挙げておくと、

海神の、入日神社

ここは、意富比神社(船橋大神宮)

元宮と言われるところである。

同じく海神の龍神社

特に意富比神社との関係は言われていないようだが、

かつての海岸線に沿って、

意富比神社、入日神社と並ぶこと、

製鉄に関連する片葉の葦の伝承があることから

多氏族などとの関連が考えられる。

 

ここに、意富比神社について説明を要するが、

自分は、ここも元は多氏族が創ったと思っている。

その詳細については、また別の機会に書こうと思うが、

そもそも水戸の大井神社を訪ねた理由の一つとして、

「大井」と「意富比」が「おおい」という

同じ音であり、本当は同名の神社なのでは?

と思ったからだ。

「大」も「意富」も、「多」の異表記であるから

確認するまでも無いようだが、

大井神社は延喜式の頃にはすでに「大井」と

書かれているので、やっぱり同名では無い可能性も

あるかな?と、気になっていたのである。

 

さて、結果は如何に?

参拝しただけで何かわかるのか?などとは、

その時不思議にも考えていなかった。

ただ、行かねばと思うばかり。

すると、果たしてあったではないか!

拝殿横の境内社群の中に、

はっきりと「元宮 意富比神社」と書かれた社が!

こんなにも明らかなものがあるとは

驚きであった。

大井神社については、延喜式内の古社だけに、

結構詳しく書かれたものも目にしてはいたが、

「元宮 意富比神社」については、

どこにも書かれていなかったものである。

みんな、この重要性に気づいていないのであろう。

 

大井神社の御祭神の変遷事情は次の通り。

まず那賀国造の祖である建借馬命が、

ここに天照大神を奉斎した後、

同族で後世那賀国造を勤めていた宇治部氏が、

祖先の建借馬命を奉斎したというもの。

後世の視点から、天照大神とされているが、

これは、必ずしも現在皇祖神として伊勢に祀られている

女神・天照大神ではなかろう。

もっと原初的な「日の神」であると思う。

この天照大神ではない「日の神」というのが、

三輪の神や鹿島の神に、大いに関わるのだが、

これも詳細は後日とする。

 

この経緯から考えるに、「元宮 意富比神社」の祭神は、

「日の神」である。

逆に言えば、船橋の「意富比」の語も

日神を表すのではないかと

考える大きな材料となる。

 

船橋の場合、後世に伊勢神宮の御厨が合祀され、

大神宮という通称で呼ばれることになった経緯があり、

色々複雑なこととなっているが、

幸い「元々の祭神は、土地の者が祀った“大日”の神であろう」とは、

言われているようだ。

しかし、多氏族の関連については、

今一つ確証となる物件がないのである。

しかし、多氏族の社である大井神社に、

「元宮 意富比神社」があり、

その由緒から、その祭神が日神であることがわかるのは、

大変心強い事である。

 

さて、先程ちょっと触れた三輪や伊勢。

ここも、実は始めて訪ねたつもりで、

実はかつて行ったことがある場所だった。

そして、箸墓古墳も…。

やっぱり頭がおかしいのかも知れない。

 

自分と大井神社との関係は

まだまだ色々続きます。

でも長くなったので、この次に。

 

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大井神社境内「元宮 意富比神社」

 

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