『古代史逍遥』dropout

古代史についてのホームページを運営しています。このブログでは、HPに載せられない事柄や、ちょっとした感想などを自由気ままに書いています。もしかするとその中に、真実が隠されているかもしれません(^J^)

栄町・駒形神社…これも「神の遣い」!

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神社や遺跡でカメラをぶら下げて歩いていると、

時々話しかけられる。

その地域の歴史愛好者の人などである。

その人達は、自ら色々説明してくれて、

まぁ中には、半分くらいはこっちも知ってるよ

みたいな事もあるけれども、

やはり地元の人ならではの情報があり、

とても役に立つ情報が多い。

私は、それらの人々を密かに

「神の遣い」と呼んでいる。

そう言うと、さぞかし神々しい

オーラを放っている人々かと思うかもしれないが、

皆普通のおじさんとかである。

これから書こうとしている数々の記事中には、

それらの人々も時々登場することになる。

また、「神の遣い」

なにも人間だけではない。

花や木、鳥や虫もいる。

今日書こうとしているのは、

その中の「神の遣いである虫」のことだ。

 

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 千葉県栄町安食の駒形神社を再訪した。

佐倉市酒々井町富里市八千代市

合わせて7社ある駒形神社は、

元は「小麻賀多」と称して、

稚産霊命を祭神とし

麻賀多神社の分社として

いいものである。

しかし栄町の駒形神社

麻賀多神社集中域から近いものの

ご祭神は稚産霊命ではなく

保食神なので、

これはまた違う系統の駒形神社なのだ

と思っていた。

しかし、一度参拝し、

周囲の地形を見たり、

社殿の向きを調べたりした時から、

もしかして…と気になっていたのだ。

 

印旛沼周辺の麻賀多神社20社及び

駒形神社7社を巡り終え、

仮説として立てていた

麻賀多神社の条件」なるものが、

やはり思った通りだと

感じていた所である。

その条件とは、

① 西から南西の方角を向く。

② その方向には何がしかの水域がある。

 

栄町・駒形神社は、

その条件を見事にクリアしていた。

そして位置的にも

一連の「小麻賀多」の中に入れても

おかしくない場所に鎮座する。

それなのに何故祭神が違うのだろう?

 

ところがその疑問は、

ある日突然解決した。

何がきっかけかも忘れてしまった。

ありがちな表現をすれば、

「天から降りた」というのか?

 

栄町・駒形神社の位置するところは、

7世紀後半に

印旛郡から分かれた埴生郡ではないか!

それが理由だ。

何故今まで気付かなかったのだろう?

これまで色々調べた事を鑑みるに、

様々な神社で現在の祭神が

定められたのは、

7世紀半ばの律令制施行後。

印旛郡の方はおそらく

東北地方と結びつきの強い

物部系の氏族が

管理することとなった。

丈部(はせつかべ)を名乗る

氏族である。

麻賀多神社の祭神も、

その影響下で決められた。

自分は、福島県は郡山の

安積国造神社が関連ありとみる。

ここの主祭神稚産霊命である。

台方麻賀多神社境内に

本宮が宮城県の「青麻神社」があるのも、

東北地方との関連を物語る。

 

印旛は、多氏の印波国造の領域なのに

変ではないかと思うなかれ、

印波国造の主力は、

7世紀初頭から、

現在の龍角寺古墳群のある地域に

移り、後に埴生郡を立てたのが

印波国造の系統の者達なのだと思う。

多氏系の地域にあった駒形神社は、

祭神に稚産霊命を採用しなかったのだ。

どちらにしても、

双方、五穀生産の農耕神となっている。

 

多氏の建てた麻賀多神社の祭神が

稚産霊命なのに、

多氏族の埴生郡だから「稚産霊命」ではない

という、頭がこんがらかってしまいそうな

事態になったが、

色々な事を総合すると

そうなのだ。

ポイントは、やはり7世紀の

郡の分離。

このことは色々なところで

誤解や問題の複雑化を

生み出しているようだ。

「印波国造の一派は、

印旛郡ではなく、

埴生郡の方に拠点を移した。」

ということを

念頭に置かないといけない。

そして、真っ先に誤解した人は

古事記編纂者・太安万侶である。

古事記には、神ハ井耳命を祖神とする

多氏の族に、印波国造が入れられていない。

その理由としては色々言われているが、

私は、郡の分離が原因と考えている。

 

さて、「神の遣いの虫」は

どうなりましたん?

それです。

そうとなったら

すぐに駒形神社へ行かねばならない。

前回は、到着したころに

すでに夕闇で、

良い写真も撮れなかったので、

いづれまた行きたいと思っていた。

 

今回も午後も遅い時間だったが

まだ十分明るい時間に到着。

二つの鳥居をくぐる参道は

木々が鬱蒼としているが、

拝殿前は明るくパッと視界が開ける。

やはり暗い時とは印象が違っていた。

ソニーのα5000を取り出し、

何枚も撮影。

金比羅大神と書かれた石柱の裏に

不思議な紋様の虫を発見!

撮影したものの、

近すぎてピントが

合わなかったのではないかと思い

画像を表示して、

ついでに他のもチェックしようとしたら、

カードが挿入されていませんので

表示出来ませんと…

先日カードを取り出したまま、

入れ忘れたようだった。

カード入ってなくても撮影動作は出来るらしい。

撮影前にお知らせしてよね!と思う。

その後は急遽スマホ撮影に切り替えて

これまで撮った場所ももう一回撮影した。

ホント、虫さんがいなければ、

撮影出来ていると思い、

そのまま帰ってしまい、

残念な事になるところだった。

故に、その虫さんは、

晴れて神の遣い殿堂入り

果たしたのである。

 

そして、よくある事だが

今日も来るべくしてこの時間に

来たようである。

何故なら、

沈みゆく夕陽が

ちょうど社殿の正面に来るのを

目の当たりにしたからだ。

冬至にかなり近いこの時期に

落日を対する神社。

それこそ、私が想定している

麻賀多神社の役割である。

社殿の向きを調べれば、

予想できる事なのだが、

実際に見るのは、

はるかに印象が違う。

来るべくして、この日この時間に

訪れたようであった。

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拝殿前から、南西側を望む。二の鳥居の上の

木立の間に落日。

 

※栄町・駒形神社の由緒には、

1151年の飢饉の時に奉斎し、

翌年には豊作になったので、

安んじて食物が得られるとして

「安食」の地名が出来たとするが、

聖地としてはこれ以前に存在していた

可能性が大きい。

また、上記のような地名起源説話は

ほとんどが後世の付会と思ってよい。

少なくとも私はそう考える。

 

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そちらも参考にしてください。

iniparu.jimdo.com