『古代史逍遥』dropout

古代史についてのホームページを運営しています。このブログでは、HPに載せられない事柄や、ちょっとした感想などを自由気ままに書いています。もしかするとその中に、真実が隠されているかもしれません(^J^)

檜原神社にて、あれこれ思う

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  檜原神社・三つ鳥居

 

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一連の奈良旅行の予定には

吉野の天河大辨財天社も入っていて、

ここは「呼ばれないと行けない。」とかよく言われる。

しかし、ひねくれ者の私としては、

「あれだけ交通の便の悪いところにあるのだから、

ほんの少し番狂わせがあったりすれば、

行けなくなることもあろうな!」などと思ったりしている。

そしてとりあえず、

今回自分がなかなか行けなかったのは、

天河大辨財天ではなく、

まさかの檜原神社だったのだ!

まず最初に三輪山方面を訪ねた時は、

初日から石見と田原本で予定がずれて、

順繰りにずれ込んでいったので、

結局最終日の朝から参拝するはずだった大神神社

午後からとなり、

狭井神社までしか行けなかった。

次の機会には、

前回の投稿で書いたような事態となり、

結局檜原神社までは行けなかった

 (´・ω・`)

うーん。理由は少~しわかる気がする。

何故なら、本当の笠縫村は檜原神社あたりではなくて、

田原本の多神社付近なのではないかと思っているからだ。

実際、近鉄橿原線笠縫駅は、

多神社の最寄駅で、

檜原神社の地からは離れている。

天照大神が最初に鎮座された笠縫村が現在の檜原神社だと

言われているのに、

なぜ笠縫駅は、だいぶ離れたここなのだろう?と

疑問に思ったものである。

しかし、色々調べているうちに、

やはり笠縫村は檜原神社付近ではなく、

本当に今の笠縫駅近くなのではないか?と思い始めた。

そしてそれは、多氏族とも深く関わるものである。

その理由だが、

話出すと長々となってしまうので、

ヒントとなる事項を列挙するから、

後は各自で考えてください。(なげやり…(^▽^;))

持統天皇以前の天照大神は、

 現在の伊勢内宮の女神と同じとは

 限らない。

天武天皇が伊勢に奉斎したのは

 元々大和で祀られていた日神である。

③大和の元々の日神とは、三輪山の神ではないのか?

三輪山の神は、本来昇る太陽に関わる日神である。

⑤多神社は三輪山二上山の間に位置し、

 太陽祭祀に深く関わっていると思われる。

⑥最初伊勢に祀られたのが、

大和の古来からの日神ならば、

多氏族は、伊勢にも深くかかわるであろう。

⑦三輪の神と伊勢の神は、実は同体である。

 

⑦に関しては、能の演目『三輪』の終盤に

同じ文言が語られて、

そういう認識が古来からあったことがわかる。

また、笠縫村が多神社の付近だという事を表すものが

実際現地にあった。

それは、多神社の東側に少し離れてある姫皇子命神社である。

ここは、多神社の摂社であり式内社でもある重要な社だが、

「ここが天照大神の最初に祀られた所」だという伝承を持つ。

 

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このような事をつらつら考えていたので、

檜原の神様は、

「ちょっと遠回りさせてやろう」と

お考えになったか…

 

だからといって、

檜原の地が重要でないわけではない!

鳥居の真ん中に

西方の二上山がすっぽり入るのは

周知の事。

ここも三輪山二上山に関わる

太陽祭祀の地であるには違いない。

ここに檜原神社があるために、

伝承の笠縫の地はこことされてしまい、

定説になっただけなのでは?

整理してみると、

まず件の日の神は、

当初は「多の地=現在の笠縫駅の最寄り」に

祀られ、

その後三輪山山麓に移った。

とそんなこんなを考えつつ

三度目の正直で

やっとたどり着いた檜原神社は、

とても清々しい明るい空間だった。

勿論、西方に見える二上山のシルエットも確認。

でも、ありがちな鳥居越しの撮影は

敢えてせず (  ̄▽ ̄)

 

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