『古代史逍遥』dropout

古代史についてのホームページを運営しています。このブログでは、HPに載せられない事柄や、ちょっとした感想などを自由気ままに書いています。もしかするとその中に、真実が隠されているかもしれません(^J^)

大物主神 それはハイブリッドの神様?

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  三輪山登拝口(狭井神社境内)

 


これは、自分的に思い付いた事の忘備録です。

精査して書いているものではありません。

予めお断りしておきます (^^)/

 

大神神社の御祭神

大物主櫛甕魂命…

この御神名について考えています。

それには古代三輪山を巡る政治的事情が

深く関わっていると考えました。

時代を追って自分の考えた概要を提示してみます。

まず、東の三輪山から昇る太陽の原始信仰があったと思います。

そして、その地にいつの頃か、出雲系の人達がやって来ました。

大和地方の出雲が先なのか?

島根県の出雲が先なのか?

答えを出すのは難しいですが、

島根県に「みむろ」と呼ばれる山があるのを知りました。

雲南市須賀の御室山。

須賀神社の奥宮とされ、

その昔、須佐之男命が室を作って住んだと言われるらしい。

奈良県三輪山の別名を「みもろ山」又は「みむろ山」と言いますが、

その理由を解説したものを読んでも、

何かしっくり来ないものばかり。

実はその出所が、

この出雲の御室山ではないのか?

現在杵築大社のあるところは、

古代でも比較的新しく開発された所で、

実は出雲勢力の大元は、

この須賀神社辺りであるらしいですね。

そうすると、やはりこの辺りから、大和へということなのでしょうか?

その出雲系の人々が、

元々の三輪山の神に自分たちの神を重ねてお祀りするようになった。

 

さて次は大和の出雲系の人々と三輪山の関係についてです。

大和を含む広範囲に勢力を持っていた出雲系の人々は、後から侵入した神武天皇に象徴される一族に圧される結果となります。

しかし新興勢力は、土地に絶大な影響力を持っていた彼らを、全くのないがしろにすることは来ませんでした。

それらを否定することは、人心の離反を招き、今後の統治に差し支える事は目に見えていました。

新興勢力は、三輪山祭祀を継続したのです。

旧勢力の神も手厚く祀り、それによって人民に認めてもらう事により無駄な混乱を避ける。

これは、秦始皇帝が行い項を奏した手法でもあります。

「混乱を避ける」という意味では、第二次世界大戦後に日本の天皇制の存続を選択した米国のやり方にも似ていますね。

 

しかし、旧来のままの方法で行うのは危険です。祭祀権のある氏族が勢力を拡大し、いずれ脅威となる恐れがあります。

そのため、複数の氏族に分担させたのではと考えました。

その考えの発端となったのは、

三輪山麓の祭祀遺跡です。

大規模な祭祀遺跡が3つ確認出来るそうです。

そして、三輪山の頂上へ至るまでのにある磐座は3つ。

3つの鳥居を合わせた形の三鳥居。

それは、大神神社の祭神が配神の大国主命少彦名命を合わせて三柱であることとも符合しています。(ただ、各磐座にこれらの神格を当てたのは、割合新しいことなのではないかと思いますが。)

 

これは、三輪山祭祀に3つの氏族が関わった事を表しているのではないか?

 

次に、その3つがどの氏族かです。

まず筆頭は物部氏

出雲勢力下で元々の三輪山祭祀を行っていたのは、物部氏だと思われます。

「大物主櫛甕魂命」の神名には、「櫛」や「玉(魂)」という物部氏の祖神(天照国照火明櫛玉饒速日命)の要素が多く含まれ、「物」という文字も使われています。物部氏は古くから「目に見えない事象=物」を扱っていました。

そして、大三輪氏。

崇神天皇の時代に新たにオオタタネコを迎えての大物主神祭祀が始まりましたが、オオタタネコの子孫が大三輪氏です。

オオタタネコの逸話は、やがて三輪山祭祀の主流が大三輪氏になったことを表すのかもしれません。

もう1つは、多氏。

多氏は、田原本町に多神社があり、それは三輪山を意識した位置にあることから、三輪山信仰の氏族であったには違いないのですが、多神社は距離的に少し離れていて、山麓の祭祀遺跡と関わるのかどうか…と最初は思いました。

しかし、大物主神の神名に「甕」が含まれていることから、それが多氏の要素ではないかと思ったのです。

「櫛」や「玉(魂)」は、物部氏の祖神ニギハヤヒの神名に含まれる物です。

その「櫛魂」に割り込む形で「甕」が入っている。

多氏の出自が九州だとすると、そこは甕棺墓などの「大甕」文化の地でした。

その前身は多氏族が創始したと思われる鹿島神宮の祭神「武甕槌大神」の神名にも「甕」が使われています。

多氏も最初は、三輪山麓で祭祀を行っていた一員だったのではないだろうか?

それが、あるきっかけから祭祀場を多神社に移したと予想しました。

それは、弟に天皇の座を譲り、自らは祭祀王となった神武天皇皇子の神八井耳命の逸話に秘密がある。

しかし、話が反れるのでこれはまた後日にしましょう。

 

※文中では分かりやすいように、単純に◯◯氏と表現しましたが、この時代にこのような氏族の別が明確にあったかどうかはわかりません。この後に役割が変わって行く過程で氏族名と言うものも出来て来たのではないかと考えます。

「果たして氏族名というものが、いつ頃からあったのか。さほど古い物ではないのではないか?」という見解もあり、然りと思います。

3世紀、4世紀の事を語るのに、あたかもこの頃から後世と同様な氏族名があったように語るのは間違えで、敢えて言うなら「◯◯氏の祖」と言うべきなのかもしれません。

 

ここまで書いてきて、

更にもう一歩考えが進みました。

三系統の集団による祭祀という事には変わりないのですが…

 

① まず最初の原初的信仰がありました。(太陽祭祀)

② ①と出雲系の神が融合する。(この時点では、

  出雲系が新興勢力となります。旧勢力とは、長脛彦らの勢力か?)

③ ②に次の新興勢力の祭祀も重ねられる。(この勢力は、三輪信仰に二通りの

  意味を持たせたと思われます。それは、三輪山自体の信仰に

  天皇霊の信仰を付加したということです。)

 

①はすでに②の段階で融合して物部氏の祖が行い、

③を大三輪氏と多氏が行ったと考えました。

 

もしそうなら、

「倭大物主櫛甕魂命」とは

最終的にいくつもの神格を併せ持つに至った

言わばハイブリッドの神様。

「倭の神の中の神」「最強の神」と言われるのも

最もなのであります!

 

最初に書いたように、

これはまだ考え中の事柄です。

不備な点はご容赦を (´・ω・`)

 

 

 

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