『古代史逍遥』dropout

古代史についてのホームページを運営しています。このブログでは、HPに載せられない事柄や、ちょっとした感想などを自由気ままに書いています。もしかするとその中に、真実が隠されているかもしれません(^J^)

またまた、鳥居についての問題!

前回と前々回で、

鳥居の建て替えの際、

型が変わってしまうのは

良くないのではないかと

書いたが、

またまた、同様の例を発見!

茨城県水戸市

愛宕山古墳上に鎮座する

愛宕神社の鳥居である。

自分が参拝した時、

社務所のある方の鳥居は、

石製の台輪鳥居だったが、

これは、近年建て替えられたものだと

知った。

 

どなたかのブログ、2010年の記事に、

以前の鳥居の画像が載っており、

確かにかなり老朽化した様子であった。

型としては明神鳥居だが、

各所が骨太でかなりがっしりしている。

それを見て、

これは九州熊本や佐賀辺りの

流れを汲むのではないかと思った。

これもまた、

instagramを見ていて分かったのだが、

熊本や佐賀の鳥居は、

ものすごくドーンとしているのだ。

石にこだわる地域の特色なのだろうか?

古墳にも、埴輪ではなく、

石人を並べた地域である。

磐井の墓所と言われている岩戸山古墳が

代表例である。

 

そして、常陸多氏の出自が

九州北部だというのであれば、

このような独特の鳥居は、

何らかの意味があったのでは

ないだろうか?

 

益々、鳥居の型の重要性を

感じてしまう。

関係者の方々お願いします。

鳥居の建て替え時には、

どうか慎重に!

と、心の叫び \(-o-)/

 

愛宕神社の以前の鳥居は、

人様のブログの画像なので、

掲載できないのが残念…

以下は現在の画像です。

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      社務所

 

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     参道入口側

この鳥居も以前は、石製両部鳥居だったようです。

 

 

 

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引き続き、鹿島鳥居のこと。

前回、言及した印西市

鹿島鳥居のある神社の

画像を掲載しました。

 

印西市下井鳥見神社

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主祭神の社殿の方に鹿島鳥居があります。

 

印西市下井稲荷神社

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この2社の鳥居は、

笠木の太さなどについては、

基本にのっとってはいませんが、

鹿島鳥居と言ってよいでしょう。

 

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印旛沼周辺の鳥見神社の解説とギャラリーを

設けています。

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成田市の数少ない鹿島鳥居のこと。

成田市橋賀台付近。

素朴で素晴らしい鹿島鳥居がある神社。

老朽化で、建て替えられて

しまうのではないかと、

日々ヒヤヒヤしている (´・ω・`)

神社名は、地図では「五神社」と

なっているが、果たして…。

詳細は本文中に。

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instagramに投稿しつつ、

早急にブログにも書いておかねば

という事が出来たので、取り急ぎ。

 

神社の鳥居の事だ。

もっと言えば、成田市にある

数少ない「鹿島鳥居」についてである。

鳥居の老朽化に伴い、

建て替えられる時、

それまでの型と変わってしまう

場合が多い。

そして、たいていは

石製の明神鳥居か台輪鳥居が、

選択されるように思われる。

実際最もよく見られる型である。

ちょっと待った!と言いたい。

 

鳥居の形式は、それなりの

意味があったのではないのか?

大社となれば、

古来の型式がずっと継承されている。

伊勢系は神明鳥居。

鹿島神宮は、伊勢系から派生した鹿島鳥居。

大神神社は三つ鳥居。

その意味がわかると、

歴史の秘密も解くことが

出来るかもしれない

大事な情報ともなり得るものだ。

※神明系は、ちょっと思いつかないのだが、

三つ鳥居に関しては、実は最近わかったような

気がしている。これは、奈良紀行で…。

 

印旛沼河畔で言えば、

麻賀多神社本宮の一の鳥居

水中鳥居だったものが、

現在はそうでないのは、

道路整備などの関係なのだが、

かつては水中鳥居だったことは、

周知なので、まあ良しとする。

問題はその形だ。

現在は石製台輪鳥居。(前々回の記事参照)

ところが、昭和62年に書かれた

『千葉県神社名鑑』の画像に

水中鳥居が写っており、

それは鹿島鳥居であった。

今の鳥居になる前は、

麻賀多神社一の鳥居は、

鹿島鳥居だったのだ。

印波が鹿島と関連ありと思っている自分には、

これは、非常に重要である。

とはいえ、その写真の鹿島鳥居も

古代からあるわけではなく、

何度も建て替えられた結果であり、

建てられた時代の事情というものが

反映されるので、

古代の創建とは

すぐに結び付けられるものではないが、

少なくともある時期の事情を反映し、

それはもしかすると、

古代まで遡れるかもしれないのだ。

 

実は、印旛沼周辺には、

鹿島鳥居が幾つか存在する。

それは、印西市下井付近で、

その理由ははっきりしている。

下井を含む印旛沼の北西側は、

近世に新田開発された所で、

一部は、現在の茨城県利根町付近からの

移住者が開墾した。

その付近の神社に鹿島鳥居があるのは、

そのためだろうと思っている。

実に利根川の北の茨城県側と

南の千葉県側では、

鹿島神社の分布が、

全く違う。

千葉県側は、無きに等しい言ってよい。

自分の知っているのは、

成田市土室の一社のみ。

 

印西市下井の鹿島鳥居は、

近世の開墾事情を

よく表していると言える。

その時代のモニュメントである

これが建て替えられて、

もしも別の型になってしまったら、

非常に残念だ。

しかし、ここもまた、

茨城側からの移住者がいた事が

わかっており、

資料もあるので、

忘れ去られはしないであろう。

 

最も問題にしたいのは、

前述の麻賀多神社一の鳥居と、

成田市橋賀台付近の

ごく小さな社に立てられた

鹿島鳥居の事だ。

その問題の社は、

橋賀台2丁目から

台方の方へ降りる道の右側、

かなりの高台にある。

頂上に石宮があり、

傍らに五社神の石柱。

中央の石宮に何が祀られているのか

わからないので、

地図などには「五神社」と

出ていたりする。

しかし、所在地などから

『千葉県神社名鑑』に「世直神社」と

記載のあるのが、ここなのではないかと思う。

「世直」というのがどういう謂れか

わからないけども、

船形の麻賀多神社境内に、

「世直神社」の石宮があるので、

ここからの勧請とするのに、

辻褄も合う。

このように、

本来の名称も忘れかけられている

小社なのである。

そこの神社の鳥居が、

鹿島鳥居なのだ。

それも、素朴な木製の

笠木の片側を細く作るという

鹿島鳥居の約束も

きちんと守られた貴重なものだ。

因みに、「片側を細く」というのは、

自然木をそのまま用いた様態である。

 

最近、近隣では、

船形の浅間神社の鳥居が建て替えられた。

素朴な木の鳥居だったものが、

立派な石の鳥居になった。

型は、ちゃんと確認していないが、

明神鳥居か、台輪鳥居のいずれかと

思われる。

新しくなるのは結構なことなのだが、

以前の特異な雰囲気の

木の鳥居も惜しまれる。

宗忠鳥居だった気がするが、

今となっては不明。

早く写真を撮っておけば良かった😥

 

あの「世直神社」の

素晴らしい鹿島鳥居が、

ある日建て替えられて、

よくある石の明神鳥居か何かに

なってしまうのではないかと、

ヒヤヒヤしている。

近くを通った時は、様子を伺い、

良かった!あるある、鹿島鳥居!

と思っているのである。

 

しかし、『千葉県神社名鑑』の、

麻賀多神社一の鳥居の画像。

よくぞこの写真をのせてくれました

という感じ!

ほとんどの神社は、

ごく普通に、

社殿の写真が載せられているが、

麻賀多神社本宮は、

この水中鳥居の写真のみ。

やはり何者かの力が働いて、

残るものは残るのかもしれない。

サムシング・グレート…☆

 

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朝房山に登れなかった話。

水戸市「くれふしの里古墳公園」のはに丸

なぜ朝房山の話に、はに丸の画像が?

それは、後で明らかになる。

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奈良紀行、伊勢紀行へ入る前に、

“朝房山に登れなかった件”について

書かねばならない。

 

何故登れなかったかと言うと、

朝房山には、

登山口が二つ、

笠間市側と水戸市側があり、

調べたところ、

笠間側からは、中腹まで車では入れて、

そこからは10分くらいで頂上に着く

というような情報を入手したからだ。

 

もとより、

特に山女ではなく、むしろ海派。

かといって、泳ぎは苦手で、

サーフィンするわけでもなく、

海辺でボーッとしているのが好き

という部類の海派。

迷わず、笠間側へ行くことにした。

 

登山がしたいわけでも無いのに、

何故登るかと言うと、

朝房山は、常陸のこの辺りの

三輪山だからである。

標高は200m級で、

あまり高くはない三輪山

更に半分位の高さだが、

三輪型神婚譚が伝わる御山である。

神八井耳命を祖とする多氏族は、

三輪の大物主神の末裔でもある。

神八井耳命の母は、

大物主神の娘だからだ。

おそらく、この地に移住した一族が、

朝房山をこの地の三輪山として、

崇め祀ったのであろう。

 

5月に三輪山登拝をして来たので、

朝房山にも是非登りたい。

そして、久々に大井神社を参拝し、

帰りに内原イオンで、

地元では入手困難な、

干し納豆、黒豆納豆、

水戸のお酒「一品」を買う…

という計画。

「一品」は、大井神社の祭礼の時に

お神酒として戴いたが、

とてもおいしかったんです。

自分は、全く通じゃないけれども、

あっ これ美味しいと即座に

思うのはあまりないことで、

これは、大井様から戴いたから、

と思っているのを差し引いても

美味しい。

 

そう。それで笠間口。

ここだろうと思うところに行くには行けた。

しかし、急に道は狭くなり、草も生い茂り、

本当にここから車で入れるの?という感じ。

入ってみれば、狭いのは入り口だけ

ということもよくあるが…。

ちょっとした空間に、車を停めて、

少しだけ覗いてみたが、

その場所に長く停車してはいけないのでは

とも思い、奥までは見に行けない。

実は、ここに到達する直前の道が

わかりずらく、

Googleスマホナビを入れたら、

同じところをグルグル回されてしまい、

時間を食ってしまった。

グーグルでなくグルグル(+o+)

着けば10分で行けると思っていたので、

家を出たのも遅めになってしまったから、

この時点で午後も結構遅くなってしまい、

また出直すこととする。

しかし、明らかに笠間口から入ったと思われる

山道に、車を停めている画像を

ブログなどに載せている人もいるので、

やっぱり入れるのかもしれない。

どっちにしても、

やはり水戸側から行くと、

登山口から頂上までは

結構時間を要し、

藪のような道が続くらしい。

 

そこでふと考えた。

三輪山登拝は、

狭井神社社務所が管理していて、

万が一降りてこないような人がいれば、

すぐわかるのだ。

しかし、ここにはそんなシステムは無く、

勝手に登るので、

低い山と雖も、

不慣れな者が、1人で行っては

いけないのではないか?

御山で遭難などしたら申し訳ない。

実際、三輪では

山でもない麓の平面地帯で、

もしやこのまま遭難?と

一瞬危ぶむ事態に陥ったのだ。

これは、また詳しく書くつもりだが、

要するに、山の辺の道を檜原神社の方へ

歩いていたのだけれども、

日が暮れだしたらどんどん暮れて、

檜原神社へは断念したけれども、

明るい道に出るまで相当かかり、

三輪様の麓で遭難とは、

申し訳ないと思いつつ、

必死で歩いたという経験。

 

そこで思いついたのは、

何も朝房山に登らなくてもいいのではないか?

この地の人々から、

どのような感じで山が見えていたか。

それがわかればいいんじゃないか?

 

水戸市側の入り口を調べていたら、

近くに森林公園というのがあり、

展望台もあって、

朝房山がよく見えるらしい。

今度はそこへ行って、

お姿を拝見しよう。

笠間の方からもわかりそうだが、

他の山もあって、

はっきり分からなかったのだ。

更にわかったことは、

以前行った「くれふしの里古墳公園」の

巨大埴輪展望台はに丸に上ると

見えるらしいということ。

あーしまった。はに丸には登らなかった。

でも、はに丸は、

ちょっと距離が離れているので、

やはり森林公園がいいと思う。

そして、恐竜の巨大オブジェが

沢山あるらしい。

これも良い。

思いついたら、すぐにでも行きたいが

そういうわけにもいかぬのが、

悲しいです(T_T)

 

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印波国6世紀。ある日の情景。

 

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  麻賀多神社一の鳥居付近から印旛沼水路の方を望む

 

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        麻賀多神社一の鳥居

 

湾に船が入って来る。

そして、聞こえくる人々の声。

船を迎える準備をする人達。

船着き場の左右で、

円墳が出迎えます。

完成したばかりの先代首長の墳墓。

少し年数の経た先先代の墳墓。

到着した一行は、

高台へ上る道を進みます。

ここは、氏神様の参道。

無事戻ったことを感謝し、

旅の報告をする。

隣国の首長との交渉、

または、交易関係のことでしょうか。

客人を連れて来たのかもしれません。

 

6世紀の印波国。

成田市下方から台方の

麻賀多神社一の鳥居から、

神社へかけての情景を、

想像して書いて見ました。

一の鳥居はかつては水中鳥居で、

即ち、ここと印旛沼水路の間の土地が、

海だったのです。

古墳は、大塚古墳と丸塚古墳

石枕や銅鏡が出土しましたが、

十分な調査ができないまま、

消滅した古墳です。

 

古代史の探求に当たっては、

“必ず地図で位置関係を確かめること”と

“現地を見る!”

というのをモットーと

しています。

それは、

地元の遺跡や神社に足を運ぶうちに、

つくづく実感している事です。

何故こうなのかが、

周辺の地形などから判ったり、

疑問が解けたりします。

また、現在の地形ではなく、

なるべく古代の様相に

近いものを想定して、

考えなければなりません。

印旛沼周辺で最も重要なのは、

印旛沼がかつては

現在の利根川霞ケ浦手賀沼

ひとつながりの内海だったと

いう事です。

大体、高台の下に広がる水田は、

かつては海の一部の水域だったと

考えます。

そういう空想を巡らしながら、

景色を眺めると見えてきませんか?

古代の風景が…。

 

印波国の事が中心のホームページの

ドロップアウトでありながら、

印波国の事をあまり書いてないなぁと

気付き、この記事を…。

なぜなら、常陸国のことも山ほどあるし、

本年は、念願の奈良と伊勢へ行き、

これまた多大なる収穫を得たので、

それを次々と書かねばならないので、

またまた印波国の記述ではなくなる。

この辺で書いておかないと。

 

 行ってみて、やはり実感したのは、

現地を見て始めてわかるのだという事。

これはきっと物理的なものだけではない。

その土地のというか

そういうものが絶対あります。

 

しかし、前述の印波国のこの地点

出発点として、大変重要です。

そして、旅の収穫は

全て印波国と関わるものであります。

旅するとも…

我らと共に!

スターウォーズか?(o|o)

 

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ホームページ 経過報告

ホームページの常陸国の部分、

「建借馬命と黒坂命」の項に続き、

「建借馬命と印波」の項が、

とりあえず完成しました。

また、画像も新たに加えました。

 

ホームページは、私情を排除し、

きちんと参考文献も挙げて、

客観的視点で書いています。

是非のぞいてみて下さい。

 

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建借馬命と黒坂命の記事は

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「排除」!

使ってしまいましたね~。

この言葉が今、話題になってます。

小池さん、確かに言い方が強かったけども、

考え方の違う人は入れない…

これは、政治団体としてまとまろうと

する場合、

当然なのではないでしょうか?

議席集めのためだけに

頭数だけ揃えても、

その後いったいどうするのか!

結局まとまらずに、

うだうだになったら、

元も子もないと思いますが…

 

まあ、とりあえず言葉が強かった

こういう強い態度を排除する

日本人の特性を鑑みなかったのが、

失敗だったんでしょう。

他のところは、

複雑過ぎてわかりまへん。

ホント難しいですね (´・ω・`)

 

政治論議は苦手なので

この辺で…

 

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成田市水神の森から花島山古墳群を望む

 

 

 

大井神社の太鼓

水戸市大井神社

ここでも独特なリズムの

太鼓を聞くことが出来ました。

 

最初耳にしたのは、

境内奥の愛宕神社付近をウロウロしていた時。

ちょうど夕刻のその時刻になったのでしょう。

それはかなり長く続いて、

やはり独特のリズムのものだと分かりました。

 

その後、祭礼などで間近で聞く機会を得、

聞けばそれは「水府流」というのだそうです。

水戸の異称を水府といい、

「水府流」といえば、

徳川斉昭が編み出した泳法が思い浮かびますが、

太鼓の奏法にもあるのですね。

 

前回鹿島神宮の太鼓の事を書きましたが、

面白いことに、

それぞれがそれぞれの御祭神に

ぴったりなのです。

鹿島神宮の太鼓は、

次第に勇壮に華麗にリズムを刻み、

軽快に盛り上がって行きます。

それに対して、大井神社の太鼓は、

もっとゆったりと重々しく、

地に足が着いたというか、そういう感じ…

 

そもそも鹿島の神の前身ともいうべきが

建借馬命で、ちょっと武骨なイメージ。

それが、次第に国家の軍神となるに従い、

華麗にスマートになっていった?

思わず年齢まで想定してしまいたくなる…

鹿島神宮は華麗な壮年の神。

建借馬命はもう少し年を重ねた

堂々たる風体。

そんな感じが、それぞれの太鼓の響きに

現れているのです。

 

鹿島神宮では、

彩色の少ない清々しい拝殿と、

それとは裏腹な華麗に装飾が施された本殿からも、

即座にイメージを構築してしまいました。

往年の日本の美学

地味な表地に華やかな色柄の裏地を貼る。

勇猛にして優美、豪胆にして繊細。

そんな洗練されたイメージを持ちました。

昔、学らんの裏に派手な生地を貼った

 バンカラ学生というのがいたようですが、

 それも、また伝統美学ですね。

 そもそも、現在でも日本文化の

 継承の一部はヤンキーと呼ばれる人達が

 担っているような気がする。

 彼等は何故か和風が好き。

 車のフロントに組み紐下げたり…

 龍柄のシャツとか。

 面白いですね。

 

話がそれましたが、

大井神社の建借馬命さま、

華々しく活躍する自身の分身を、

少し離れて見守っている図でしょうか?

 

そうそう、大井神社の太鼓の意匠

また素晴らしいのです。

許しを得て、間近で撮影させて

頂きました(^J^)

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