『古代史逍遥』dropout

古代史についてのホームページを運営しています。このブログでは、HPに載せられない事柄や、ちょっとした感想などを自由気ままに書いています。もしかするとその中に、真実が隠されているかもしれません(^J^)

太陽になりたかった男。石舞台古墳。

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    石舞台古墳から見える二上山

 

前回「神の遣い」のおじさん達の

話題が出たので、

奈良は石舞台古墳から

書こうと思う。

 

石舞台古墳

かつては、もはや決まったように

蘇我馬子の墓だと言われていたが、

さすがに今は、

あからさまにそうは説明されない。

はっきりそうと分かったわけではないので

それが妥当である。

 

石舞台へ行く前に、

甘樫丘の近くにある

明日香村埋蔵文化財展示室に寄った。

昔幼稚園だった建物を利用した

素朴な良い資料館である。

 

部屋の真ん中では、

石舞台古墳に関するビデオが

流されていたので見ていると、

最後の方でこんな感じのフレーズが流れた。

「夕暮は、夕日に照らされて

赤く輝いた事でしょう。」

それをきいて閃いた。

この男は、太陽になりたかったのだ!

 

石舞台古墳の位置するところは、

奈良盆地も南の外れに近いが、

北から、御蓋山、龍王山、三輪山、鳥見山など、

聖なる山の連なるラインの

延長線上にあると言ってよい。

これらの、盆地東側の山々は、

古代には、太陽信仰の中心であった。

山頂から昇る朝日の崇拝。

その時東に坐すのは、

神のはずである。

その延長線上に築かれた大型方墳。

里から昇る朝日を拝するとき

人々は盆地からみて高台に位置するこの古墳を

拝するような形となる。

夕は、二上山の方角から射し来る夕日が

古墳を照らした。

古墳から二上山がよく見えるのだ。

 

被葬者は死後、

自らが太陽の神になろうと

したのでは?

 

そんな事を考えて、

二上山の写真などを撮っていると、

「熱心にお撮りになってますね。」などと

話しかけられ、いよいよ「神の遣い」の

お出ましである。

二上山が石舞台から、

こんなによく見えるんですね。」

とか答えていると、

~その時によって見え方が全然違う。

時に、真っ赤に染まるときがあり、

それは、向こう側の河内辺りの

水蒸気の具合なども関係する云々。~

 

どうやら、よくここに来ては

二上山の観察をしている人のようだ。

それにしても、

向こう側の大気の状態で

見え方がそんなに変わるとは

知らなかった。

 

二上山の話が一段落すると、

持統天皇の話になった。

~天武・持統天皇夫妻は、

仲が良くて一緒の墓に

入っているように見えるが、

実は違うのだ。

持統は、天武天皇

祟って出てこないように

見張るために、

自分を天武の横に葬れと

生前遺言していた。

その証拠となる資料も

出ているのです。~

 

資料も出ているとは

驚きである!

しかし、それがどこから出たのか?

どういう種類の文献なのか?

そういうことは、聞き流してしまい、

再度聞くのもはばかられ、

わからないままになってしまった。

 

しかし実際、それはあり得るかもしれない。

何故なら、持統天皇の父は天智天皇で、

落馬によって落命したとされてきたが、

暗殺説もあり、

仕掛け人は、天武である。

父を暗殺した夫を

持統は恨んでいたという話。

その時点で仲のいい夫婦ではない。

ではなぜ天武が祟って出るのか?

それは、天武の死後

持統天皇のしたことは

ことごとく、天武の意に反することであった。

天武が最も信頼し、

後継と目していた大津皇子

謀反したとして処刑。

我が子の草壁皇子皇位につけるためだ。

しかし、草壁は早世してしまう。

そこで今度は、

草壁の子で、孫にあたる軽皇子

皇位につけた。(文武天皇

 

天武の意に反して即位させた皇子が、

天武に祟られてはならないという

強い思いがあってもおかしくない。

 

このような事から、

どこから出たのかも

分からなくなってしまった文献だが、

大いにあり得ると思うのだ。

 

さて、そんな事を語った後、

よくその辺にいるような

おじさんである「神の遣い」の

その人は、次の目的地へ

原付バイクで去った。

 

信憑性があるのかないのかわからぬが、

面白い話を伺った。

石舞台へ来て、

石舞台とは直接関係ない話が

印象に残る事となったが、

「神の遣い」の役目はそれだけでは無かった。

実はこの後時間があったら

桜井市の鳥見山に行こうかと思っていたのだが、それには少し遅くなってしまったのでやめた。

しかし、それで良かったのだ。

おじさんと話していたのは

そんなに長い時間ではない。

もし、これで時間を取られなかったら

鳥見山に行ってしまい、

近鉄奈良駅前のトヨタレンタカーに

車を戻すのにギリギリの時間となって、

帰り道、さぞかし焦った事であろう。

帰途は時間的に、道路も混雑している箇所が

いくつもあったからだ。

やはり、あのおじさんは神の遣いである。

いや、石舞台で会ったので、

石舞台関係者か?

 

因みに、例の明日香村の資料展示室では、

石舞台古墳は、それより以前のいくつかの

古墳を破壊して、その上に築かれた。」

との説明があった。

そんな事をするから、自分の墳墓も、

墳丘の盛り土を持ち去られ、

あんな石室だけの姿になってしまうんよ‼︎

と思っていたが、

関係者の方に助けられたかもしれないので、

あまり非難するのはよそう。

でも、他人の墓を破壊したり、

太陽になろうとしたりする男。

やはりそれは「蘇我馬子」のイメージに

ピッタリだ。

 

最後にもう一つ感想として…,。

古墳だけが野っ原にデーンとあるのかと思ったら、周囲は公園として整備されて、

見学料を払うと近くまで行け、

石室内にも入れるという仕組み。

その事を知らなかったので、

閉館時間を少し過ぎての到着となり、

遠巻きに見ることとなったが、

それでも、巨石を積み上がった石室の光景は

圧巻でありました🙆‍♀️

 

 

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   石舞台古墳

 

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そちらも参考にしてください。

北総地方を中心とした古代史です。

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栄町・駒形神社…これも「神の遣い」!

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神社や遺跡でカメラをぶら下げて歩いていると、

時々話しかけられる。

その地域の歴史愛好者の人などである。

その人達は、自ら色々説明してくれて、

まぁ中には、半分くらいはこっちも知ってるよ

みたいな事もあるけれども、

やはり地元の人ならではの情報があり、

とても役に立つ情報が多い。

私は、それらの人々を密かに

「神の遣い」と呼んでいる。

そう言うと、さぞかし神々しい

オーラを放っている人々かと思うかもしれないが、

皆普通のおじさんとかである。

これから書こうとしている数々の記事中には、

それらの人々も時々登場することになる。

また、「神の遣い」

なにも人間だけではない。

花や木、鳥や虫もいる。

今日書こうとしているのは、

その中の「神の遣いである虫」のことだ。

 

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 千葉県栄町安食の駒形神社を再訪した。

佐倉市酒々井町富里市八千代市

合わせて7社ある駒形神社は、

元は「小麻賀多」と称して、

稚産霊命を祭神とし

麻賀多神社の分社として

いいものである。

しかし栄町の駒形神社

麻賀多神社集中域から近いものの

ご祭神は稚産霊命ではなく

保食神なので、

これはまた違う系統の駒形神社なのだ

と思っていた。

しかし、一度参拝し、

周囲の地形を見たり、

社殿の向きを調べたりした時から、

もしかして…と気になっていたのだ。

 

印旛沼周辺の麻賀多神社20社及び

駒形神社7社を巡り終え、

仮説として立てていた

麻賀多神社の条件」なるものが、

やはり思った通りだと

感じていた所である。

その条件とは、

① 西から南西の方角を向く。

② その方向には何がしかの水域がある。

 

栄町・駒形神社は、

その条件を見事にクリアしていた。

そして位置的にも

一連の「小麻賀多」の中に入れても

おかしくない場所に鎮座する。

それなのに何故祭神が違うのだろう?

 

ところがその疑問は、

ある日突然解決した。

何がきっかけかも忘れてしまった。

ありがちな表現をすれば、

「天から降りた」というのか?

 

栄町・駒形神社の位置するところは、

7世紀後半に

印旛郡から分かれた埴生郡ではないか!

それが理由だ。

何故今まで気付かなかったのだろう?

これまで色々調べた事を鑑みるに、

様々な神社で現在の祭神が

定められたのは、

7世紀半ばの律令制施行後。

印旛郡の方はおそらく

東北地方と結びつきの強い

物部系の氏族が

管理することとなった。

丈部(はせつかべ)を名乗る

氏族である。

麻賀多神社の祭神も、

その影響下で決められた。

自分は、福島県は郡山の

安積国造神社が関連ありとみる。

ここの主祭神稚産霊命である。

台方麻賀多神社境内に

本宮が宮城県の「青麻神社」があるのも、

東北地方との関連を物語る。

 

印旛は、多氏の印波国造の領域なのに

変ではないかと思うなかれ、

印波国造の主力は、

7世紀初頭から、

現在の龍角寺古墳群のある地域に

移り、後に埴生郡を立てたのが

印波国造の系統の者達なのだと思う。

多氏系の地域にあった駒形神社は、

祭神に稚産霊命を採用しなかったのだ。

どちらにしても、

双方、五穀生産の農耕神となっている。

 

多氏の建てた麻賀多神社の祭神が

稚産霊命なのに、

多氏族の埴生郡だから「稚産霊命」ではない

という、頭がこんがらかってしまいそうな

事態になったが、

色々な事を総合すると

そうなのだ。

ポイントは、やはり7世紀の

郡の分離。

このことは色々なところで

誤解や問題の複雑化を

生み出しているようだ。

「印波国造の一派は、

印旛郡ではなく、

埴生郡の方に拠点を移した。」

ということを

念頭に置かないといけない。

そして、真っ先に誤解した人は

古事記編纂者・太安万侶である。

古事記には、神ハ井耳命を祖神とする

多氏の族に、印波国造が入れられていない。

その理由としては色々言われているが、

私は、郡の分離が原因と考えている。

 

さて、「神の遣いの虫」は

どうなりましたん?

それです。

そうとなったら

すぐに駒形神社へ行かねばならない。

前回は、到着したころに

すでに夕闇で、

良い写真も撮れなかったので、

いづれまた行きたいと思っていた。

 

今回も午後も遅い時間だったが

まだ十分明るい時間に到着。

二つの鳥居をくぐる参道は

木々が鬱蒼としているが、

拝殿前は明るくパッと視界が開ける。

やはり暗い時とは印象が違っていた。

ソニーのα5000を取り出し、

何枚も撮影。

金比羅大神と書かれた石柱の裏に

不思議な紋様の虫を発見!

撮影したものの、

近すぎてピントが

合わなかったのではないかと思い

画像を表示して、

ついでに他のもチェックしようとしたら、

カードが挿入されていませんので

表示出来ませんと…

先日カードを取り出したまま、

入れ忘れたようだった。

カード入ってなくても撮影動作は出来るらしい。

撮影前にお知らせしてよね!と思う。

その後は急遽スマホ撮影に切り替えて

これまで撮った場所ももう一回撮影した。

ホント、虫さんがいなければ、

撮影出来ていると思い、

そのまま帰ってしまい、

残念な事になるところだった。

故に、その虫さんは、

晴れて神の遣い殿堂入り

果たしたのである。

 

そして、よくある事だが

今日も来るべくしてこの時間に

来たようである。

何故なら、

沈みゆく夕陽が

ちょうど社殿の正面に来るのを

目の当たりにしたからだ。

冬至にかなり近いこの時期に

落日を対する神社。

それこそ、私が想定している

麻賀多神社の役割である。

社殿の向きを調べれば、

予想できる事なのだが、

実際に見るのは、

はるかに印象が違う。

来るべくして、この日この時間に

訪れたようであった。

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拝殿前から、南西側を望む。二の鳥居の上の

木立の間に落日。

 

※栄町・駒形神社の由緒には、

1151年の飢饉の時に奉斎し、

翌年には豊作になったので、

安んじて食物が得られるとして

「安食」の地名が出来たとするが、

聖地としてはこれ以前に存在していた

可能性が大きい。

また、上記のような地名起源説話は

ほとんどが後世の付会と思ってよい。

少なくとも私はそう考える。

 

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またまた、鳥居についての問題!

前回と前々回で、

鳥居の建て替えの際、

型が変わってしまうのは

良くないのではないかと

書いたが、

またまた、同様の例を発見!

茨城県水戸市

愛宕山古墳上に鎮座する

愛宕神社の鳥居である。

自分が参拝した時、

社務所のある方の鳥居は、

石製の台輪鳥居だったが、

これは、近年建て替えられたものだと

知った。

 

どなたかのブログ、2010年の記事に、

以前の鳥居の画像が載っており、

確かにかなり老朽化した様子であった。

型としては明神鳥居だが、

各所が骨太でかなりがっしりしている。

それを見て、

これは九州熊本や佐賀辺りの

流れを汲むのではないかと思った。

これもまた、

instagramを見ていて分かったのだが、

熊本や佐賀の鳥居は、

ものすごくドーンとしているのだ。

石にこだわる地域の特色なのだろうか?

古墳にも、埴輪ではなく、

石人を並べた地域である。

磐井の墓所と言われている岩戸山古墳が

代表例である。

 

そして、常陸多氏の出自が

九州北部だというのであれば、

このような独特の鳥居は、

何らかの意味があったのでは

ないだろうか?

 

益々、鳥居の型の重要性を

感じてしまう。

関係者の方々お願いします。

鳥居の建て替え時には、

どうか慎重に!

と、心の叫び \(-o-)/

 

愛宕神社の以前の鳥居は、

人様のブログの画像なので、

掲載できないのが残念…

以下は現在の画像です。

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      社務所

 

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     参道入口側

この鳥居も以前は、石製両部鳥居だったようです。

 

 

 

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引き続き、鹿島鳥居のこと。

前回、言及した印西市

鹿島鳥居のある神社の

画像を掲載しました。

 

印西市下井鳥見神社

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主祭神の社殿の方に鹿島鳥居があります。

 

印西市下井稲荷神社

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この2社の鳥居は、

笠木の太さなどについては、

基本にのっとってはいませんが、

鹿島鳥居と言ってよいでしょう。

 

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参考にしてください。

印旛沼周辺の鳥見神社の解説とギャラリーを

設けています。

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成田市の数少ない鹿島鳥居のこと。

成田市橋賀台付近。

素朴で素晴らしい鹿島鳥居がある神社。

老朽化で、建て替えられて

しまうのではないかと、

日々ヒヤヒヤしている (´・ω・`)

神社名は、地図では「五神社」と

なっているが、果たして…。

詳細は本文中に。

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instagramに投稿しつつ、

早急にブログにも書いておかねば

という事が出来たので、取り急ぎ。

 

神社の鳥居の事だ。

もっと言えば、成田市にある

数少ない「鹿島鳥居」についてである。

鳥居の老朽化に伴い、

建て替えられる時、

それまでの型と変わってしまう

場合が多い。

そして、たいていは

石製の明神鳥居か台輪鳥居が、

選択されるように思われる。

実際最もよく見られる型である。

ちょっと待った!と言いたい。

 

鳥居の形式は、それなりの

意味があったのではないのか?

大社となれば、

古来の型式がずっと継承されている。

伊勢系は神明鳥居。

鹿島神宮は、伊勢系から派生した鹿島鳥居。

大神神社は三つ鳥居。

その意味がわかると、

歴史の秘密も解くことが

出来るかもしれない

大事な情報ともなり得るものだ。

※神明系は、ちょっと思いつかないのだが、

三つ鳥居に関しては、実は最近わかったような

気がしている。これは、奈良紀行で…。

 

印旛沼河畔で言えば、

麻賀多神社本宮の一の鳥居

水中鳥居だったものが、

現在はそうでないのは、

道路整備などの関係なのだが、

かつては水中鳥居だったことは、

周知なので、まあ良しとする。

問題はその形だ。

現在は石製台輪鳥居。(前々回の記事参照)

ところが、昭和62年に書かれた

『千葉県神社名鑑』の画像に

水中鳥居が写っており、

それは鹿島鳥居であった。

今の鳥居になる前は、

麻賀多神社一の鳥居は、

鹿島鳥居だったのだ。

印波が鹿島と関連ありと思っている自分には、

これは、非常に重要である。

とはいえ、その写真の鹿島鳥居も

古代からあるわけではなく、

何度も建て替えられた結果であり、

建てられた時代の事情というものが

反映されるので、

古代の創建とは

すぐに結び付けられるものではないが、

少なくともある時期の事情を反映し、

それはもしかすると、

古代まで遡れるかもしれないのだ。

 

実は、印旛沼周辺には、

鹿島鳥居が幾つか存在する。

それは、印西市下井付近で、

その理由ははっきりしている。

下井を含む印旛沼の北西側は、

近世に新田開発された所で、

一部は、現在の茨城県利根町付近からの

移住者が開墾した。

その付近の神社に鹿島鳥居があるのは、

そのためだろうと思っている。

実に利根川の北の茨城県側と

南の千葉県側では、

鹿島神社の分布が、

全く違う。

千葉県側は、無きに等しい言ってよい。

自分の知っているのは、

成田市土室の一社のみ。

 

印西市下井の鹿島鳥居は、

近世の開墾事情を

よく表していると言える。

その時代のモニュメントである

これが建て替えられて、

もしも別の型になってしまったら、

非常に残念だ。

しかし、ここもまた、

茨城側からの移住者がいた事が

わかっており、

資料もあるので、

忘れ去られはしないであろう。

 

最も問題にしたいのは、

前述の麻賀多神社一の鳥居と、

成田市橋賀台付近の

ごく小さな社に立てられた

鹿島鳥居の事だ。

その問題の社は、

橋賀台2丁目から

台方の方へ降りる道の右側、

かなりの高台にある。

頂上に石宮があり、

傍らに五社神の石柱。

中央の石宮に何が祀られているのか

わからないので、

地図などには「五神社」と

出ていたりする。

しかし、所在地などから

『千葉県神社名鑑』に「世直神社」と

記載のあるのが、ここなのではないかと思う。

「世直」というのがどういう謂れか

わからないけども、

船形の麻賀多神社境内に、

「世直神社」の石宮があるので、

ここからの勧請とするのに、

辻褄も合う。

このように、

本来の名称も忘れかけられている

小社なのである。

そこの神社の鳥居が、

鹿島鳥居なのだ。

それも、素朴な木製の

笠木の片側を細く作るという

鹿島鳥居の約束も

きちんと守られた貴重なものだ。

因みに、「片側を細く」というのは、

自然木をそのまま用いた様態である。

 

最近、近隣では、

船形の浅間神社の鳥居が建て替えられた。

素朴な木の鳥居だったものが、

立派な石の鳥居になった。

型は、ちゃんと確認していないが、

明神鳥居か、台輪鳥居のいずれかと

思われる。

新しくなるのは結構なことなのだが、

以前の特異な雰囲気の

木の鳥居も惜しまれる。

宗忠鳥居だった気がするが、

今となっては不明。

早く写真を撮っておけば良かった😥

 

あの「世直神社」の

素晴らしい鹿島鳥居が、

ある日建て替えられて、

よくある石の明神鳥居か何かに

なってしまうのではないかと、

ヒヤヒヤしている。

近くを通った時は、様子を伺い、

良かった!あるある、鹿島鳥居!

と思っているのである。

 

しかし、『千葉県神社名鑑』の、

麻賀多神社一の鳥居の画像。

よくぞこの写真をのせてくれました

という感じ!

ほとんどの神社は、

ごく普通に、

社殿の写真が載せられているが、

麻賀多神社本宮は、

この水中鳥居の写真のみ。

やはり何者かの力が働いて、

残るものは残るのかもしれない。

サムシング・グレート…☆

 

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朝房山に登れなかった話。

水戸市「くれふしの里古墳公園」のはに丸

なぜ朝房山の話に、はに丸の画像が?

それは、後で明らかになる。

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奈良紀行、伊勢紀行へ入る前に、

“朝房山に登れなかった件”について

書かねばならない。

 

何故登れなかったかと言うと、

朝房山には、

登山口が二つ、

笠間市側と水戸市側があり、

調べたところ、

笠間側からは、中腹まで車では入れて、

そこからは10分くらいで頂上に着く

というような情報を入手したからだ。

 

もとより、

特に山女ではなく、むしろ海派。

かといって、泳ぎは苦手で、

サーフィンするわけでもなく、

海辺でボーッとしているのが好き

という部類の海派。

迷わず、笠間側へ行くことにした。

 

登山がしたいわけでも無いのに、

何故登るかと言うと、

朝房山は、常陸のこの辺りの

三輪山だからである。

標高は200m級で、

あまり高くはない三輪山

更に半分位の高さだが、

三輪型神婚譚が伝わる御山である。

神八井耳命を祖とする多氏族は、

三輪の大物主神の末裔でもある。

神八井耳命の母は、

大物主神の娘だからだ。

おそらく、この地に移住した一族が、

朝房山をこの地の三輪山として、

崇め祀ったのであろう。

 

5月に三輪山登拝をして来たので、

朝房山にも是非登りたい。

そして、久々に大井神社を参拝し、

帰りに内原イオンで、

地元では入手困難な、

干し納豆、黒豆納豆、

水戸のお酒「一品」を買う…

という計画。

「一品」は、大井神社の祭礼の時に

お神酒として戴いたが、

とてもおいしかったんです。

自分は、全く通じゃないけれども、

あっ これ美味しいと即座に

思うのはあまりないことで、

これは、大井様から戴いたから、

と思っているのを差し引いても

美味しい。

 

そう。それで笠間口。

ここだろうと思うところに行くには行けた。

しかし、急に道は狭くなり、草も生い茂り、

本当にここから車で入れるの?という感じ。

入ってみれば、狭いのは入り口だけ

ということもよくあるが…。

ちょっとした空間に、車を停めて、

少しだけ覗いてみたが、

その場所に長く停車してはいけないのでは

とも思い、奥までは見に行けない。

実は、ここに到達する直前の道が

わかりずらく、

Googleスマホナビを入れたら、

同じところをグルグル回されてしまい、

時間を食ってしまった。

グーグルでなくグルグル(+o+)

着けば10分で行けると思っていたので、

家を出たのも遅めになってしまったから、

この時点で午後も結構遅くなってしまい、

また出直すこととする。

しかし、明らかに笠間口から入ったと思われる

山道に、車を停めている画像を

ブログなどに載せている人もいるので、

やっぱり入れるのかもしれない。

どっちにしても、

やはり水戸側から行くと、

登山口から頂上までは

結構時間を要し、

藪のような道が続くらしい。

 

そこでふと考えた。

三輪山登拝は、

狭井神社社務所が管理していて、

万が一降りてこないような人がいれば、

すぐわかるのだ。

しかし、ここにはそんなシステムは無く、

勝手に登るので、

低い山と雖も、

不慣れな者が、1人で行っては

いけないのではないか?

御山で遭難などしたら申し訳ない。

実際、三輪では

山でもない麓の平面地帯で、

もしやこのまま遭難?と

一瞬危ぶむ事態に陥ったのだ。

これは、また詳しく書くつもりだが、

要するに、山の辺の道を檜原神社の方へ

歩いていたのだけれども、

日が暮れだしたらどんどん暮れて、

檜原神社へは断念したけれども、

明るい道に出るまで相当かかり、

三輪様の麓で遭難とは、

申し訳ないと思いつつ、

必死で歩いたという経験。

 

そこで思いついたのは、

何も朝房山に登らなくてもいいのではないか?

この地の人々から、

どのような感じで山が見えていたか。

それがわかればいいんじゃないか?

 

水戸市側の入り口を調べていたら、

近くに森林公園というのがあり、

展望台もあって、

朝房山がよく見えるらしい。

今度はそこへ行って、

お姿を拝見しよう。

笠間の方からもわかりそうだが、

他の山もあって、

はっきり分からなかったのだ。

更にわかったことは、

以前行った「くれふしの里古墳公園」の

巨大埴輪展望台はに丸に上ると

見えるらしいということ。

あーしまった。はに丸には登らなかった。

でも、はに丸は、

ちょっと距離が離れているので、

やはり森林公園がいいと思う。

そして、恐竜の巨大オブジェが

沢山あるらしい。

これも良い。

思いついたら、すぐにでも行きたいが

そういうわけにもいかぬのが、

悲しいです(T_T)

 

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印波国6世紀。ある日の情景。

 

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  麻賀多神社一の鳥居付近から印旛沼水路の方を望む

 

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        麻賀多神社一の鳥居

 

湾に船が入って来る。

そして、聞こえくる人々の声。

船を迎える準備をする人達。

船着き場の左右で、

円墳が出迎えます。

完成したばかりの先代首長の墳墓。

少し年数の経た先先代の墳墓。

到着した一行は、

高台へ上る道を進みます。

ここは、氏神様の参道。

無事戻ったことを感謝し、

旅の報告をする。

隣国の首長との交渉、

または、交易関係のことでしょうか。

客人を連れて来たのかもしれません。

 

6世紀の印波国。

成田市下方から台方の

麻賀多神社一の鳥居から、

神社へかけての情景を、

想像して書いて見ました。

一の鳥居はかつては水中鳥居で、

即ち、ここと印旛沼水路の間の土地が、

海だったのです。

古墳は、大塚古墳と丸塚古墳

石枕や銅鏡が出土しましたが、

十分な調査ができないまま、

消滅した古墳です。

 

古代史の探求に当たっては、

“必ず地図で位置関係を確かめること”と

“現地を見る!”

というのをモットーと

しています。

それは、

地元の遺跡や神社に足を運ぶうちに、

つくづく実感している事です。

何故こうなのかが、

周辺の地形などから判ったり、

疑問が解けたりします。

また、現在の地形ではなく、

なるべく古代の様相に

近いものを想定して、

考えなければなりません。

印旛沼周辺で最も重要なのは、

印旛沼がかつては

現在の利根川霞ケ浦手賀沼

ひとつながりの内海だったと

いう事です。

大体、高台の下に広がる水田は、

かつては海の一部の水域だったと

考えます。

そういう空想を巡らしながら、

景色を眺めると見えてきませんか?

古代の風景が…。

 

印波国の事が中心のホームページの

ドロップアウトでありながら、

印波国の事をあまり書いてないなぁと

気付き、この記事を…。

なぜなら、常陸国のことも山ほどあるし、

本年は、念願の奈良と伊勢へ行き、

これまた多大なる収穫を得たので、

それを次々と書かねばならないので、

またまた印波国の記述ではなくなる。

この辺で書いておかないと。

 

 行ってみて、やはり実感したのは、

現地を見て始めてわかるのだという事。

これはきっと物理的なものだけではない。

その土地のというか

そういうものが絶対あります。

 

しかし、前述の印波国のこの地点

出発点として、大変重要です。

そして、旅の収穫は

全て印波国と関わるものであります。

旅するとも…

我らと共に!

スターウォーズか?(o|o)

 

古代史に関するホームページを作成中です。

参考にしてください。

iniparu.jimdo.com