『古代史逍遥』dropout

古代史についてのホームページを運営しています。このブログでは、HPに載せられない事柄や、ちょっとした感想などを自由気ままに書いています。もしかするとその中に、真実が隠されているかもしれません(^J^)

奈良県 多神社① ご祭神のことなどなど

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多神社は、正式名称「多坐弥志理都比古神社」といい、

多氏族の近畿における本拠地です。

印波国造は多氏族なので、

奈良へ行くと真っ先にここへ来ました。

最寄り駅は、近鉄橿原線笠縫駅

駅の南西、飛鳥川のほとりに鎮座します。

弥志理都比古(ミシリツヒコ)とは、

多氏族の始祖である神武天皇の長子神八井耳命のこと。

ミシリツの意味については、

皇位を弟に譲ったことから「退く」の意味だとか、

「水を知る」の意だとして、

治水の技術に長けた人物だったから…などなど。

しかしどちらもいまいちしっくり来ないような気もします。

特に「退く」の方は無理矢理感が強い。

その点「水を知る」の方が、

皇位を譲って、自らは司祭となった人物として

頷けるものはあります。

別名に「井」の文字があることにも符号します。

しかし、これは今では意味の分からなくなってしまった

古代の言葉なのではないかという気もします。

そういう言葉は、かなり多いのではないでしょうか?

そして、それらは縄文語だったりするのでは?

地名などには、よく変ったものがあって、

それらはアイヌ語だと言われたりします。

アイヌ縄文人という

単純な図式は成り立たないとはいえ、

列島の北端と南端に

縄文の文化が色濃く残ったのは

自然なことといえるかもしれません。

 

さて、「ミシリツ」がそこまで遡る言葉かどうかは

わかりませんが、

多神社の境内自体が弥生時代の集落遺跡なので、

かなり古い言葉が残っている可能性が

あります。

 

また神八井耳命を始祖とする多氏族のルーツも

定かではなく、

本拠地も、近畿に多神社があるものの

九州地方に多氏系の国造が多く輩出し、

元々はどちらが基盤なのかは不明です。

また、渡来系との見方も頷けるものがあります。

 ※ただ、「渡来人」という言葉。

  非常にあいまいです。

  日本列島全部が渡来人とも

  言えるわけなので…。

  どの時期にどこから来たのかが

  問題になるだけ。

 

御祭神は、境内掲示板によると、

神八井耳命の他に

神武天皇、神沼河耳命、姫御神。

姫御神が媛蹈鞴五十鈴姫命だとすれば、

言わば「神武天皇ファミリー」でありますね。

おっと!しかしもう一名。

太安万侶の名が…。

社殿は、春日大社と同じく、

四棟の本殿が並ぶ形なのに一名多い。

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実は、太安万侶も多氏族で

多神社宮司はその末裔。

お名前も「多さん」です。

1979年に、奈良市内の茶畑から

太安万侶のお墓が見つかったこともあり、

太安万侶は後からご祭神に

列せられたのでは?

と推測しますが…。

 

でも本殿は四棟。

1人あぶれてしまうよ。

でも安万侶氏いましたよ。

拝殿前に立ってました(^◇^)

???

答えは次回。

 

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奈良県・唐古鍵遺跡の絵画土器と印波国。そして方墳。

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※上の写真=田原本町教育委員会発行の小冊子より

 

奈良県田原本町・唐古鍵遺跡では、

弥生時代中期に住居跡などが減りますが、

古墳時代になると、弥生遺跡の上に古墳などが造られました。

この地域の古墳に関する小冊子を購入しましたが、

見ていて気付いたのは、「方墳が多い」ということです。

現在私の調査対象である印波国造の

墓域の一つである成田市公津原古墳群も、

方墳の割合が高い所です。

特に、便宜上分けられた3支群のうちの

瓢塚古墳群に方墳が多いのです。

色々な古墳群を見ると、やはり円墳が多く、

方墳率の高さは、一つの特色と言って良さそう

唐古鍵遺跡と公津原で、

そこの部分が共通しているのを興味深く思います。

やはり、印波国は大和地方でも

この辺りと繋がりがあるのではないか?

これは、墳形の共通性だけから言うのではありません。

「先代旧時本紀」によれば印波国造は多氏族であり、

唐古鍵遺跡とさほど遠くない所に、

近畿での多氏族の本拠地の多神社があるのです。

多神社は、境内自体が弥生時代からの遺跡であり、

周辺も含め多遺跡と言われています。

唐古鍵遺跡との近さから、

そこの居住者は同族か、交流のあった可能性大です。

 〇ただし、多遺跡から出土した絵画土器に描かれた

 建物は、唐古鍵遺跡とは形式の違うものです。

 

復元楼閣に惹かれて、一度は行くべきと思っていた唐古鍵遺跡ですが、

現在の古代史の活動に、

こんなにも重要な意味を持つとは!

 

ここで、唐古鍵遺跡と印波に見出した共通点をまとめてみます。 

①方墳が多い(古墳時代

② 絵や文字を書いた土器が多い。

 (唐古=弥生時代の絵画土器。印波=平安時代の長文墨書土器)

 

また、唐古鍵の弥生絵画土器に龍を表す文様というのがあり、

時代が下るとその図柄は次第に簡略化されて記号化します。

龍の文様に限らず、その時代の土器には

記号のようなものが書かれています。(上の写真参照)

印波国では、記号のようなものが書かれた

平安時代の墨書土器が出土していて、

それは数字の8を横にしたような

「∽」という印

これが、唐古の龍の記号に

ちょっと似ているのです。

「∽」の意味は不明とされていますが、

もしかしてこれは龍を表すのでは?

などと考えたりしています。

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 ※千葉県成田市の遺跡調査報告書より

 

このように土器に記号を書くということも

似ているし、特徴的な記号のひとつが

龍かもしれない…。

しかし、現段階では

多くの遺跡について精査したわけではないので、

何とも言えませんが…。

 

とりあえず、唐古鍵遺跡と印波国に

意外にも幾つかの共通点らしきもの?

を発見したという覚え書きです。

 

  ★「∽」は関ジャニ∞に似てるな。

  この記号入りのグッズを売り出すと

  売れるかな~(^^♪

  関ジャニが人気のあるうちに

  やらないとね。

 

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奈良県 唐古鍵遺跡2

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「唐古鍵考古学ミュージアム」でお会いしたのは、

女性のボランティアガイドの方でした。

来館した時ちょうど居合わせ、せっかくなのでお願いしました。

とても感じの良い方でしたが、それだけではなく、

本当に歴史や遺跡が好きでやっているという感じに好感を持ちました。

私が、はるばる千葉県から来たというので、

大変歓迎もしていただきました。

やはり、説明を受けながら見て回ると、個々の物の印象が強くなり、

頭に入りやすいものです。

この遺跡では、例の復元されている楼閣をはじめ、

いわゆる絵画土器という絵の描かれた土器の出土が、全国でも一番多い事。

後世に池になっていた水中から出た遺跡なので,

木製品ので保存状態が極めて良いことも、珍しいことだそうです。

そしてこの時代(弥生時代)には、

奈良盆地からは鉄器が一つも出ていないということ等々。

これらのことは、説明書きに書かれていたり、

購入した小冊子に記載されていたりするものもありますが、

一人で見て回っただけでは、なんとなくサラッと見てしまい、

すぐ忘れてしまったかもしれません。

弥生時代の大和地方に鉄器が無いということは、

今読んでいる古墳や鉄の流通に関する本と繋がって、

改めて貴重な情報だったと思っています。

そして、絵画土器が多いということで頭に浮かんだのは、

印旛沼周辺で多く出土する墨書土器でした。

これらは主に平安時代の物なので時代は下りますが、

なんらかの関連はない無いのだろうか?

古代印波国造は多氏族であり、多氏の近畿での本拠地は、

唐古鍵遺跡にもほど近い田原本町の「多」という所です。

当然この北総の地も、近畿地方の影響を受けているので、

田原本辺りから大勢の人が来たかもしれない。

墨書土器自体は各地で出ていますが、

北総で最も特徴的なのは、

絵画と共に文章の書かれた「長文墨書土器」というものです。

「土器に何か書く」という体質

共通点がある気がします。

実は、これ以外でも奈良のこの地域と

印旛沼周辺で共通点を見出したので、ますますそう思えてしまいます。

そのことに関しては別記事で…。

 

その他、ガイドの方の説明によって、強く印象に残ったのは、

二つの甕を用いた井戸の施設

粘土と天然の鉄の作用で自然にできた物を利用した「勾玉入れ」

これは「褐鉄鉱容器」と言って、

粘土の周りに自然に鉄が付着したもので、

これを割って中の粘土を取り出すと、

中が空洞になって、容器として使えます。

外観は錆びた鉄塊のようで綺麗ではありません。

しかし、王はこれに宝物の勾玉を入れていた。

当時貴重な鉄によって自然に出来る褐鉄鉱に

特別な意味を見出していたのではないかと思います。

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         ミュージアムの小冊子より

 

これらも、説明付きで展示されていましたが、

ガイドさんも説明を聞いたことで、

より強く印象付けられました。

 

このように唐古鍵考古学ミュージアムでは、

絶妙なタイミングで良いガイドさんに巡り合いました。

というのは、元々この日この時間に

ここを訪れる予定ではなかったのです。

三日間の奈良滞在のうち、

初日に遺跡とミュージアムの両方に行くつもりでした。

しかし、まず多神社に行き、

例の如く写真を撮りながら長居してしまい、

おまけにどの目的地も、最寄駅から近くなく、

この日はミュージアムに行けなくなってしまいました。

三日目は大神神社に行こうと思っていたので、

ミュージアムにはその前に行ったのでした。

 

このような偶然が重なり、

お会いできたガイドさんは、更に重要なことを教えてくれました。

これから大神神社へ行くというと、

社務所へ声をかけると、三ツ鳥居を拝観させてもらえますよ。」

そうなんです。

三つ鳥居は大神神社独特の鳥居ですが、

私はてっきり、参拝すればどこからか見られるのだろう

と思っていたのでした。

しかし、鳥居は神社の方に案内してもらって

拝殿の奥へ行かなければ見えない物なのでした。

 ※後で大神神社の境内案内を見ると

 三つ鳥居の拝観は、事前申し込みを…と

 小さく書いてあった。

     本当は参拝前に申し込まなければ

 いけなかったのかな?

 そう言えば、私が唐突に申し出たときは

 たまたま手すきの神職さんがいたので、

     すぐに案内して

 もらえたような感じでした。

 やはり、通常は

     あらかじめ申し込んでおくのが

 良いようです。

  しかし神社では、

 唐突の申し出にも親切に対応していただきました。感謝です。

 

少々強引でしたが、

ミュージアムのガイドさんに

教えていただかなければ、

三つ鳥居を拝見しないで帰ってしまったところだったので、

このガイドさんもまた、「神の遣い」に違いないと

密かに勝手に「神の遣い」に認定させて

いただきました (^J^)

 

さて、近鉄田原本駅からミュージアムへの道すがら、

そしてミュージアムの広い窓から

終始見えていた三輪山

この後、この神山が

自分にとってこんなにも存在感を増してくるとは!

この年奈良には何回も来ることとなり、

一度は三輪山周辺だけで三日間。

念願の登拝もして来ました。

出来れば、毎年登拝したい。

 

☆唐古鍵遺跡は、現在周辺の整備が計画されていて

ミュージアムも遺跡の近くに移転するかもしれません。

来年平成30年に完成予定とのこと。見学には、とても

便利になりますね。

 

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奈良県 唐古鍵遺跡

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奈良県田原本町にある「唐古鍵遺跡」は、

以前からずっと気になっていた所です。

ずっと以前何かに載っていたこの復元楼閣を見て驚いたことといったら!

何故なら、学生時代にお遊びでしおりを作り、

中国風の風景のつもりで高い山を描いて

その上に乗せたのが、この楼閣とそっくりだったからです。

1994年に復元されたこの楼閣は、その頃まだ出来ていないし、

楼閣の描かれた土器の発掘されたのも、

もちろん知りませんでした。(というか、まだ発見されていなかったかも

しれない…)

 

「中国風の風景のつもりで」と書きましたがが、

この楼閣の意匠が、中国伝来ということではありません。

当時の無知なる私めが、勝手に「中国風」として描いたのが

たまたまこれに似ていたのです。

中国にはよく屋根の角の部分が反り返ったデザインの

建物がありますが、そのつもりで描き、

反り返りが過ぎてクルンとなってしまったのだと思いますが、

まさか我が国の古代に、このような建物があったとは!

それはさておき、

この建物の屋根に付いている装飾は何なのか…。

最近の多少勉強した私には、なんとなく解りますぞ。

以前の記事でも書いた縄文時代から継承された形。

「蕨手紋」そっくりではありませんか。

また、楼閣には鳥の造形があしらわれていますが、

元になった土器の絵にも、楼上に鳥が描かれているのです。

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復元楼閣では、建物に作り付けられた装飾のように見えますが、

土器の絵は、飛んできた鳥が建物にとまった情景かも…。

これは本物の鳥を呼ぶための建物だったのかもしれません。

祭りのために鳥を呼ぶ建物…

古来、鳥は「天と地を結ぶもの」でありました。

鳥がいかに重視されていたかは、

同じく土器に「鳥装のシャーマン」が

描かれていることでも解ります。

 

実はこの「鳥装のシャーマン」も、

かねてより気になっていたものです。

まず、佐倉市の国立歴史博物館に鳥装のシャーマンの

想像図が展示されていること。

何かの本に、

「鳥装のシャーマンは、天日鷲命を祖とする忌部氏と関わり、

これまた忌部氏の特性である麻を用いて羽を作り、

独特の祭祀を行っていたのではないか?」

というような事が書かれていたからです。

~断っておきますが、この説はある一見解で

必ずしもそうだというわけではなく、唐古鍵遺跡が

忌部氏と関わるという事では全くありません。~

 

この「鳥装のシャーマン」の出所が

まさに、この唐古鍵遺跡の絵画土器だったのです。

漠然と、「弥生時代の鳥装の人…」として認識していましたが、

顕著な発見があったのが唐古鍵遺跡でした。

 

忌部氏と関わる鳥の神を祭神とする神社が

印旛郡栄町にあります。

天日鷲命を祭神とする大鷲神社です。

もしかすると古代において、ここでは鳥装のシャーマンが

活躍したのではないか?などと考えてみたりしています。

 

さて、唐古鍵遺跡の出土品などを展示した

「唐古鍵考古学ミュージアム」では、

更なる重要な発見がありました。

そしてまたまた「神の遣い」の御出現!

ここでは、おじさんでなく女性でした。

長くなりましたので、次回へ続きます。

 

唐古鍵遺跡とは

 弥生時代前期からの遺跡で、

 古墳時代になると、かつての弥生集落の上に

 古墳が作られます。

 

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直感で買ったお皿が内行花文鏡みたいで、傘が勾玉柄と三角紋入りだったこと

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  注:これは骨董品でもなんでもない500円のお皿です⇧

 

~お皿の話~

お皿を一つ割ってしまったので同じくらいの大きさのものを購入しようとしたが、なかなかピンと来るものが無く、買わないでいた。

柄は良いけど、大きさや形状が求めているものとはちょっと違うとか…

日常使いだから高価な物はいらない。

ショッピングセンターの食器売り場、100円ショップ。

以前100円ショップで購入した茶碗が、柄も一目で気に入り、使い勝手も良かったので、安いからダメということは全然無い。

しかし、今回かはなかなかコレッと思うものが無く、ならば「買えば長く使うのだから、ちょっと奮発して予算オーバーでもいいかな?」と思い、自分的には高価な部類に入る品々も見てみたが、やっぱり琴線にふれる物が無かった。

 

そんなある日、良くスーパーの入り口あたりでやっている陶器市?で、これしか無いというお皿に遭遇!

和にも洋にも合うベージュ系。エスニック風の先刻模様の中皿である。

迷わずこれに決め、家で見せて言われたことは「何かが降臨しそうな模様だねー!」

確かに曼荼羅とか、魔法陣とか…

そして後日気付いたのは、中心の柄はまさに内行花文鏡そっくりだった。

そうか、これが即決した理由だったかと納得。

 

~傘の話~

柄入りビニール傘を買った。

何種類かあったが、これも即決。

紺色と朱色でメインは花柄…とだけ認識。

とにかくこの色合いが良かったのでこれにした。

そしてこの傘のデビューは、先日水戸の大井神社へ行った時のこと。

この日は水戸市森林公園にも行き、展望台から朝房山を見たかったが、

都合のつく日はあいにくの雨となった。

しかし雨もまた良し、

下見にもなるしと思い、出発する。

案の定、雨の大井神社境内は、晴れの日とはまた違う趣があった。

思えば雨の時に来たことはなかったので、

やっぱり来て良かったと思う。

そして、新しい傘を開いて石段を登り始めて気が付いた。

傘の一番外側を回る柄は、勾玉の形によく似ていた。

ほぉ 勾玉模様ではないかーと思いながら

数段上ると、今度は勾玉模様の内側に三角紋も見つけた。

三角紋は、以前の記事にも書いたが、

縄文時代から継承され、

装飾古墳に描かれた紋様や

巫女埴輪の衣装の紋様に見出せる。

吉野裕子氏の著作では、それは蛇を表すのだという。

 

勾玉模様と三角紋入りの傘で大井神社の石段を登るとは。

しかも今日のおろしたて。

嬉しいことと思いつつ、

拝殿の写真に傘を入れて撮ってしまったよ🤭

変な写真を撮ってすみません <(_ _)>

 

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そして、いつも動きを感じる拝殿上部の樹木。(今日はヤマタノオロチに見える…)

雨で濡れた石段、一点の紅葉もまた良し。

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 追記: 弁財天の巽神社。社殿の奥に

     今まで気付かなかった弁財天像が

     見えた。今までご神体は鏡だと

     思っていたがその奥に…。

     驚くほど可愛い弁財天様だった。

     しかし、その画像は

                  軽々しくアップしてはいけない気がするので

     報告のみ。

 

やっぱり、雨でも来て良かった!

 

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太陽になりたかった男。石舞台古墳。

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    石舞台古墳から見える二上山

 

前回「神の遣い」のおじさん達の

話題が出たので、

奈良は石舞台古墳から

書こうと思う。

 

石舞台古墳

かつては、もはや決まったように

蘇我馬子の墓だと言われていたが、

さすがに今は、

あからさまにそうは説明されない。

はっきりそうと分かったわけではないので

それが妥当である。

 

石舞台へ行く前に、

甘樫丘の近くにある

明日香村埋蔵文化財展示室に寄った。

昔幼稚園だった建物を利用した

素朴な良い資料館である。

 

部屋の真ん中では、

石舞台古墳に関するビデオが

流されていたので見ていると、

最後の方でこんな感じのフレーズが流れた。

「夕暮は、夕日に照らされて

赤く輝いた事でしょう。」

それをきいて閃いた。

この男は、太陽になりたかったのだ!

 

石舞台古墳の位置するところは、

奈良盆地も南の外れに近いが、

北から、御蓋山、龍王山、三輪山、鳥見山など、

聖なる山の連なるラインの

延長線上にあると言ってよい。

これらの、盆地東側の山々は、

古代には、太陽信仰の中心であった。

山頂から昇る朝日の崇拝。

その時東に坐すのは、

神のはずである。

その延長線上に築かれた大型方墳。

里から昇る朝日を拝するとき

人々は盆地からみて高台に位置するこの古墳を

拝するような形となる。

夕は、二上山の方角から射し来る夕日が

古墳を照らした。

古墳から二上山がよく見えるのだ。

 

被葬者は死後、

自らが太陽の神になろうと

したのでは?

 

そんな事を考えて、

二上山の写真などを撮っていると、

「熱心にお撮りになってますね。」などと

話しかけられ、いよいよ「神の遣い」の

お出ましである。

二上山が石舞台から、

こんなによく見えるんですね。」

とか答えていると、

~その時によって見え方が全然違う。

時に、真っ赤に染まるときがあり、

それは、向こう側の河内辺りの

水蒸気の具合なども関係する云々。~

 

どうやら、よくここに来ては

二上山の観察をしている人のようだ。

それにしても、

向こう側の大気の状態で

見え方がそんなに変わるとは

知らなかった。

 

二上山の話が一段落すると、

持統天皇の話になった。

~天武・持統天皇夫妻は、

仲が良くて一緒の墓に

入っているように見えるが、

実は違うのだ。

持統は、天武天皇

祟って出てこないように

見張るために、

自分を天武の横に葬れと

生前遺言していた。

その証拠となる資料も

出ているのです。~

 

資料も出ているとは

驚きである!

しかし、それがどこから出たのか?

どういう種類の文献なのか?

そういうことは、聞き流してしまい、

再度聞くのもはばかられ、

わからないままになってしまった。

 

しかし実際、それはあり得るかもしれない。

何故なら、持統天皇の父は天智天皇で、

落馬によって落命したとされてきたが、

暗殺説もあり、

仕掛け人は、天武である。

父を暗殺した夫を

持統は恨んでいたという話。

その時点で仲のいい夫婦ではない。

ではなぜ天武が祟って出るのか?

それは、天武の死後

持統天皇のしたことは

ことごとく、天武の意に反することであった。

天武が最も信頼し、

後継と目していた大津皇子

謀反したとして処刑。

我が子の草壁皇子皇位につけるためだ。

しかし、草壁は早世してしまう。

そこで今度は、

草壁の子で、孫にあたる軽皇子

皇位につけた。(文武天皇

 

天武の意に反して即位させた皇子が、

天武に祟られてはならないという

強い思いがあってもおかしくない。

 

このような事から、

どこから出たのかも

分からなくなってしまった文献だが、

大いにあり得ると思うのだ。

 

さて、そんな事を語った後、

よくその辺にいるような

おじさんである「神の遣い」の

その人は、次の目的地へ

原付バイクで去った。

 

信憑性があるのかないのかわからぬが、

面白い話を伺った。

石舞台へ来て、

石舞台とは直接関係ない話が

印象に残る事となったが、

「神の遣い」の役目はそれだけでは無かった。

実はこの後時間があったら

桜井市の鳥見山に行こうかと思っていたのだが、それには少し遅くなってしまったのでやめた。

しかし、それで良かったのだ。

おじさんと話していたのは

そんなに長い時間ではない。

もし、これで時間を取られなかったら

鳥見山に行ってしまい、

近鉄奈良駅前のトヨタレンタカーに

車を戻すのにギリギリの時間となって、

帰り道、さぞかし焦った事であろう。

帰途は時間的に、道路も混雑している箇所が

いくつもあったからだ。

やはり、あのおじさんは神の遣いである。

いや、石舞台で会ったので、

石舞台関係者か?

 

因みに、例の明日香村の資料展示室では、

石舞台古墳は、それより以前のいくつかの

古墳を破壊して、その上に築かれた。」

との説明があった。

そんな事をするから、自分の墳墓も、

墳丘の盛り土を持ち去られ、

あんな石室だけの姿になってしまうんよ‼︎

と思っていたが、

関係者の方に助けられたかもしれないので、

あまり非難するのはよそう。

でも、他人の墓を破壊したり、

太陽になろうとしたりする男。

やはりそれは「蘇我馬子」のイメージに

ピッタリだ。

 

最後にもう一つ感想として…,。

古墳だけが野っ原にデーンとあるのかと思ったら、周囲は公園として整備されて、

見学料を払うと近くまで行け、

石室内にも入れるという仕組み。

その事を知らなかったので、

閉館時間を少し過ぎての到着となり、

遠巻きに見ることとなったが、

それでも、巨石を積み上がった石室の光景は

圧巻でありました🙆‍♀️

 

 

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   石舞台古墳

 

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そちらも参考にしてください。

北総地方を中心とした古代史です。

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栄町・駒形神社…これも「神の遣い」!

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神社や遺跡でカメラをぶら下げて歩いていると、

時々話しかけられる。

その地域の歴史愛好者の人などである。

その人達は、自ら色々説明してくれて、

まぁ中には、半分くらいはこっちも知ってるよ

みたいな事もあるけれども、

やはり地元の人ならではの情報があり、

とても役に立つ情報が多い。

私は、それらの人々を密かに

「神の遣い」と呼んでいる。

そう言うと、さぞかし神々しい

オーラを放っている人々かと思うかもしれないが、

皆普通のおじさんとかである。

これから書こうとしている数々の記事中には、

それらの人々も時々登場することになる。

また、「神の遣い」

なにも人間だけではない。

花や木、鳥や虫もいる。

今日書こうとしているのは、

その中の「神の遣いである虫」のことだ。

 

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 千葉県栄町安食の駒形神社を再訪した。

佐倉市酒々井町富里市八千代市

合わせて7社ある駒形神社は、

元は「小麻賀多」と称して、

稚産霊命を祭神とし

麻賀多神社の分社として

いいものである。

しかし栄町の駒形神社

麻賀多神社集中域から近いものの

ご祭神は稚産霊命ではなく

保食神なので、

これはまた違う系統の駒形神社なのだ

と思っていた。

しかし、一度参拝し、

周囲の地形を見たり、

社殿の向きを調べたりした時から、

もしかして…と気になっていたのだ。

 

印旛沼周辺の麻賀多神社20社及び

駒形神社7社を巡り終え、

仮説として立てていた

麻賀多神社の条件」なるものが、

やはり思った通りだと

感じていた所である。

その条件とは、

① 西から南西の方角を向く。

② その方向には何がしかの水域がある。

 

栄町・駒形神社は、

その条件を見事にクリアしていた。

そして位置的にも

一連の「小麻賀多」の中に入れても

おかしくない場所に鎮座する。

それなのに何故祭神が違うのだろう?

 

ところがその疑問は、

ある日突然解決した。

何がきっかけかも忘れてしまった。

ありがちな表現をすれば、

「天から降りた」というのか?

 

栄町・駒形神社の位置するところは、

7世紀後半に

印旛郡から分かれた埴生郡ではないか!

それが理由だ。

何故今まで気付かなかったのだろう?

これまで色々調べた事を鑑みるに、

様々な神社で現在の祭神が

定められたのは、

7世紀半ばの律令制施行後。

印旛郡の方はおそらく

東北地方と結びつきの強い

物部系の氏族が

管理することとなった。

丈部(はせつかべ)を名乗る

氏族である。

麻賀多神社の祭神も、

その影響下で決められた。

自分は、福島県は郡山の

安積国造神社が関連ありとみる。

ここの主祭神稚産霊命である。

台方麻賀多神社境内に

本宮が宮城県の「青麻神社」があるのも、

東北地方との関連を物語る。

 

印旛は、多氏の印波国造の領域なのに

変ではないかと思うなかれ、

印波国造の主力は、

7世紀初頭から、

現在の龍角寺古墳群のある地域に

移り、後に埴生郡を立てたのが

印波国造の系統の者達なのだと思う。

多氏系の地域にあった駒形神社は、

祭神に稚産霊命を採用しなかったのだ。

どちらにしても、

双方、五穀生産の農耕神となっている。

 

多氏の建てた麻賀多神社の祭神が

稚産霊命なのに、

多氏族の埴生郡だから「稚産霊命」ではない

という、頭がこんがらかってしまいそうな

事態になったが、

色々な事を総合すると

そうなのだ。

ポイントは、やはり7世紀の

郡の分離。

このことは色々なところで

誤解や問題の複雑化を

生み出しているようだ。

「印波国造の一派は、

印旛郡ではなく、

埴生郡の方に拠点を移した。」

ということを

念頭に置かないといけない。

そして、真っ先に誤解した人は

古事記編纂者・太安万侶である。

古事記には、神ハ井耳命を祖神とする

多氏の族に、印波国造が入れられていない。

その理由としては色々言われているが、

私は、郡の分離が原因と考えている。

 

さて、「神の遣いの虫」は

どうなりましたん?

それです。

そうとなったら

すぐに駒形神社へ行かねばならない。

前回は、到着したころに

すでに夕闇で、

良い写真も撮れなかったので、

いづれまた行きたいと思っていた。

 

今回も午後も遅い時間だったが

まだ十分明るい時間に到着。

二つの鳥居をくぐる参道は

木々が鬱蒼としているが、

拝殿前は明るくパッと視界が開ける。

やはり暗い時とは印象が違っていた。

ソニーのα5000を取り出し、

何枚も撮影。

金比羅大神と書かれた石柱の裏に

不思議な紋様の虫を発見!

撮影したものの、

近すぎてピントが

合わなかったのではないかと思い

画像を表示して、

ついでに他のもチェックしようとしたら、

カードが挿入されていませんので

表示出来ませんと…

先日カードを取り出したまま、

入れ忘れたようだった。

カード入ってなくても撮影動作は出来るらしい。

撮影前にお知らせしてよね!と思う。

その後は急遽スマホ撮影に切り替えて

これまで撮った場所ももう一回撮影した。

ホント、虫さんがいなければ、

撮影出来ていると思い、

そのまま帰ってしまい、

残念な事になるところだった。

故に、その虫さんは、

晴れて神の遣い殿堂入り

果たしたのである。

 

そして、よくある事だが

今日も来るべくしてこの時間に

来たようである。

何故なら、

沈みゆく夕陽が

ちょうど社殿の正面に来るのを

目の当たりにしたからだ。

冬至にかなり近いこの時期に

落日を対する神社。

それこそ、私が想定している

麻賀多神社の役割である。

社殿の向きを調べれば、

予想できる事なのだが、

実際に見るのは、

はるかに印象が違う。

来るべくして、この日この時間に

訪れたようであった。

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拝殿前から、南西側を望む。二の鳥居の上の

木立の間に落日。

 

※栄町・駒形神社の由緒には、

1151年の飢饉の時に奉斎し、

翌年には豊作になったので、

安んじて食物が得られるとして

「安食」の地名が出来たとするが、

聖地としてはこれ以前に存在していた

可能性が大きい。

また、上記のような地名起源説話は

ほとんどが後世の付会と思ってよい。

少なくとも私はそう考える。

 

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そちらも参考にしてください。

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