『古代史逍遥』dropout

古代史についてのホームページを運営しています。このブログでは、HPに載せられない事柄や、ちょっとした感想などを自由気ままに書いています。もしかするとその中に、真実が隠されているかもしれません(^J^)

奈良県・多神社⑤  畝傍山と神八井耳命

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              多神社付近から見える畝傍山

 

 

以前、多神社の真東に三輪山が見え、

西に二上山が見えると書きました。

そして、もう一つ重要なのが南側の畝傍山

神社からは、木々などに遮られて見えませんが、飛鳥川の方へ出るとよく見えます。

 

神武天皇の皇子であり、多神社の創始者

神ハ井耳命は崩御すると

畝傍山の北麓に葬られたと伝えられます。

 

多神社のすぐ傍の飛鳥川のほとりから

畝傍山を望むと、

その意味が手に取るように

分かった気がしました。

「分かった」と言っても、

それはまだ感覚的なもの。   

しかし、この最初の感覚が大事なのです。

「現地を踏んでみないとわからないこと…」

それがこの感覚なのです。

畝傍山が多神社の南側にある…というのは、

現地を訪ねるまでもなく、

地図を見ればわかることです。

そこで、机上の理論をこねまわす事は

幾らでもできるでしょう。

そして、理論的に分かった気になる。

しかし、それには限界があります。

 

現地で実際に見て、

理屈無しに『ああ  そうなんだ」と思う感覚。

そこから仮説を立て、

実証の手立てを見つけていく。

そのような科学の方法を

私は採用しているようです。

ようです…というのもいい加減ですけどね (°▽°)

最初からこうするべきと思ってやっているわけではなく、気がつくと自分はそういうやり方をしていると‥

その程度のもんです。

 

さて、多神社から見える畝傍山を見て感じたのは、

「神ハ井耳命が畝傍山の北麓に葬られたという伝承は、なにがしかの史実を反映しているのではないか?」

「神ハ井耳命が皇位を弟に譲り、自らは祭祀者になったという話も、モデルとなった人物がいるのではないか?」

 

圧倒的な、畝傍山と多神社の位置関係を見て

すぐにそう思ったのですが、

「人物」という部分は「氏族」と言い換えてもいいかもしれません。

 

王になる力を充分有しながら、

それを他に譲って、補佐の道を選んだ者。

そのモチーフは、天孫降臨の時の

天忍穂耳命と邇邇藝命にも見出せます。

紀記神話には、同じモチーフが形を変えて

繰り返されている部分が多くありますね。

 

その力がありながら譲った氏族こそ

多氏族ではないかと思っているのですが、

いかがでしょうか?

因みに、以前の記事に書いた

多神社の祭神が

以前は二柱だった事についてですが、

男神の方が「天忍穂耳命」であるとする

資料があるそうです。

ここに、二つの事項の奇妙な一致が

見出せました。

 

さて、畝傍山の北麓の山本町

八幡神社がありますが、

ここはかつては

「ハ井神社」と言い、

祭神は神ハ井耳命であるとも

言われているそうです。

こここそが、神ハ井耳命の墓所なのか‥?

 

次回は、この山本の八幡神社について書きたいと思います。

 

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コメント、ありがとうございました (^J^)

昨年末に、ブログを読んでいただいた方から、

ホームページの方にコメントを

いただきました。(多分そういうことだと思う…)

ありがとうございました (^◇^)

 

ホームページの方はしばらく開いていなかったので、

昨日やっと気が付いた次第。

どうもすみません。

 

はてなブログは、コメント機能がよくわかりません。

そういうことをあまり気にせず利用しておりまして、

ホームページの方も、

返信機能が無いようなので、

こちらでお礼申し上げます。

広島の方です。また、見てくれるといいのですが…。

 

広島に「多家神社」というのがあると教えていただき、

社名も大いに気なったので調べてみました。

深く調べたわけではなく、

多氏との関連が特にあるわけでは無さそうに見えましたが、

まだ分かりません。

神武天皇でのつながりは感じられます。

 

地元の歴史を調べている経験上、

一般に言われている由緒は

表層のみしか語られていないことも多いのです。

 

また、「東国はクナト系か?」ということについてですが、

クナト系ということは出雲系ですかね?

それも大変重要な事柄だと感じます。

 

それを書き始めると長くなってしまうので、

本日は取り急ぎ

コメントへの返信ということで…。

 

 

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奈良県・多神社④ 小杜神社のことと太陽祭祀のこと。

多忙につき、前回から間があいてしまい、

どこまで書いたのやら…

 

多神社の境内または隣接する小杜神社の事を

書こうとしていたのでしたね(^◇^)

 

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ご祭神は太安万侶

神社の横には、記念碑がドーンと建っています。

1979年(昭和54)に奈良県此瀬町の茶畑から

太安万侶の墓が発見されたので、

地域が盛り上がった結果、

このような記念碑が出来たのでは?と推測していますが、

あくまで推測。

記念碑の建立年は、チェックし忘れました。

 

しかし、元々の祭神は違うのではないかとする考えもあり、

私もそう考えています。

 

以前にも紹介した大和岩男氏の著述では、

小杜神社の東側の鳥居を多神社の東鳥居、

小杜神社を境内社として扱っており、

ど真ん中に三輪山が入る位置にあることから、

三輪山祭祀を意識したものではないかとしています。

小杜神社の祭神については、

また色々複雑であり、ここでは省き、三輪山に注目したいと思います。

 

多神社境内の由緒書きでは、

三輪山祭祀には触れていませんが、

大和氏は、多神社が三輪山のほぼ真東にあることを指摘しています。

そしてまた、多神社西側を流れる飛鳥川の方へ行くと、

西方に二上山を望むことが出来ます。

三輪山山頂から昇り、二上山へ沈む太陽祭祀

非常に相応しい場所に多神社はあるのです。

 

このような場所的な問題だけでなく、

多氏族は、三輪山と大きく関わっています。

なぜなら、始祖である神八井耳命の母は、

三輪山大物主神の血を引く姫だからです。

 

皇位を弟に譲り、司祭となった神八井耳命の祭祀対象は

記紀に詳しく書かれていないけれども

三輪山及び山頂から昇る太陽の祭祀を行ったのではないかと思われます。

 

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鳥居の中央に丸く見えるのが三輪山

 

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西側に二上山

 

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多神社付近の飛鳥川

 

太安万侶が、多氏族の出であり、

多神社の神官が太安万侶の末裔であることから、

どこかの時点で、

小杜神社の祭神とされるようになったのでしょうか?

確かに、古事記編纂者として著名な太安万侶を前面に出すことで、

分かりやすく親しみやすくなることは確かです。

 

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奈良県 多神社③ 再び御祭神について。そしてヒメヒコ制のこと。

 

 

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多神社の祭神は、神武天皇神八井耳命、神沼河命、御姫神太安万侶と表示されていますが、大和岩男氏によれば、古い資料では、四柱ではなく、二柱になっているものがあると言います。

詳細は省きますが、それは男神一柱と女神一柱で、そう言うと夫婦神を思い浮かべますがそうではなく、母子神ではないかと言います。

 

母子神と推定するということは、女神の方が年嵩であるということ。

実はこの形こそ、古代の政治と祭祀を考えるときに重要なモチーフです。

いわゆるヒメヒコ制というもの。

巫女である女性の補佐により

王が政治を行う形…。

典型的なのが、今では日本人なら誰でも知っているであろう倭人

卑弥呼と男弟」の関係。

記述から、卑弥呼が鬼道を操り、それに基づき政治の実務を執り行うのは「男弟」と書かれている人物であろうと思われます。

 

邪馬台国の記述が記紀などの

史書に出てこないという謎。

しかし、これは謎ではない。卑弥呼を女王と解釈しているのでそれに該当する女性がいないだけです。

実は卑弥呼は女王では無かった。

魏の使者が女王だと思っただけだと思います。

しかし、それも無理はありません。

当時は巫女の託宣によって政治の方向が全て決まったとすると、あたかも託宣をする巫女が女王のように見えたんでしょう。

その時代が、記紀に名前を連ねるどの天皇の時代かは、ズバリと言えるものではありませんが、「男弟」というのはおそらく「古代の大王の誰か」にあたるはずです。

しかしまぁ、男弟なんて軽く書かれてしまってねー(^_^)

 

この関係を記紀に見える逸話で例に取ると、

倭迹々日百襲姫命崇神天皇

神功皇后仲哀天皇及び応神天皇

倭姫命日本武尊の組み合わせがあります。

邪馬台国九州説と近畿説の論争の決着は、何かの大発見がない限り、永遠につかないのだろうと思いますが、両地域で卑弥呼に相当すると考えられている女性達は、巫女と為政者という形において、その要素を持っていることになります。

年齢的にも、倭迹々日百襲姫命崇神天皇の叔母だと言われていますから、おそらく姫が年上。神功皇后仲哀天皇の年齢関係はわかりませんが、応神天皇の場合は母子となります。

倭姫命日本武尊の場合は巫女と為政者ではありませんが、日本武尊の活躍は、日神に仕える倭姫命の補佐が不可欠でした。そしてやはり、彼の叔母である姫が年上。

倭姫命は、天照大神に仕えるということになっていますが、古代において、

 その神が果たして天照大神だったのかは疑問があるので、敢えて「日神」としました。)

 

平安時代になっても、天皇元服して最初に選ばれる正后は、年上の女性が選ばれる習慣があったようで、それはその名残なのではと考えます。

 

更に、縁者の女性の補佐というのは、沖縄などの南方の風習でもあります。必ず年上の…というわけではありませんが、男子の女の同胞がオナリ神としてその人物を守護するのです。

 

さて、多神社の本来の祭神の二柱は、このような上代からの習慣を引き継ぐものとして興味深いと思います。

では、いつから祭神が増えて、社殿も四棟になったのだろう?

~それも大和氏の著書に書かれていたかもしれないが、忘れてしまい…。

 即調べ直す気力と時間が無いため、申し訳ないがパスします( ̄∀ ̄)

 

そして更に、いつのまにか五柱目のまろちゃんまで増えて…。

宿無しまろちゃん。

しかし実は、多神社に隣接し、境内とも言える場所に太安万侶を祭神とする小杜神社があります。宿無しでは無かった!

ところが、ここも本来の祭神は違うのでは?という疑惑あり。

でも、詳細は次回に致します m(._.)m

 

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多神社② 「まろちゃん」に多氏族カラーを見る?

前回の記事の

多神社拝殿前に立っていた安万侶氏とは?

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太安万侶のキャラクターまろちゃんでした(^◇^)

 

拝殿全景 ↓

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まろちゃん二人いる…

 

はっきり言って、

大変ミスマッチなのですが、

反面こういうのも悪くないなとも思う。

 

そして、以前茨城県大洗町

行った時のことを思い出しました。

大洗町東日本大震災で被災し、

復興のためにアニメとコラボしており、

町中にアニメのキャラクターの

描かれたものが溢れていました。

ガールズパンツァーというアニメ。

大洗町が舞台なんだとか。

大洗磯前神社でも、

境内にアニメキャラの描かれた大絵馬が

掲げられていて、

それが不思議と違和感なかったのです。

寺社仏閣には古いものという

先入観は捨てないといけません。

とはいえ、最近はちょっとやりすぎ感の

ある場合も見受けられ…。

難しいものです "(-""-)"

さて、まろちゃんはどう評価すべきかな?

 

そして、大洗町

少なからず多氏族が関わっている事が

また興味深く思われます。

茨城県東南部は

多氏系の仲国造が開拓した地域。

大洗磯前神社の創建には、

国造の末裔が関わっている。

そこと多神社に

なんだか共通のノリを感じるのは、

偶然ではないのかも。

いわゆる多氏族カラーというものが

あるのでは?

そう言えば同じく茨城県東南部の

鹿島神宮祭礼にも

そんな気分があります。

特に3月の祭頭祭。

祭りの装束自体、

よくある日本の祭りのとはちょっと違い、

明らかに南方系のものですが、

それに皆思い思いの物をぶら下げて、

背中にもしょっている。

伝統的祭風のものもありますが、

それにこだわらず、

今流行りのものや、自分の好きなもの。

今年の祭りでは、

ミニオンズがいっぱいいた。

そして当然の如くアントラーズグッズ。

鹿を頭に被っている人。

その他、キティーやピカチュウ

伝統の継承だけではない、

現代も生きている祭り。

そんな感じがすごく好きだなー。

 

なんだか終盤は、

茨城県の話になってしまった (^J^)

ので、いっそのこと画像も載せよう。

 

鹿島神宮祭頭祭にて

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大洗磯前神社境内(2015年撮影)

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奈良県 多神社① ご祭神のことなどなど

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多神社は、正式名称「多坐弥志理都比古神社」といい、

多氏族の近畿における本拠地です。

印波国造は多氏族なので、

奈良へ行くと真っ先にここへ来ました。

最寄り駅は、近鉄橿原線笠縫駅

駅の南西、飛鳥川のほとりに鎮座します。

弥志理都比古(ミシリツヒコ)とは、

多氏族の始祖である神武天皇の長子神八井耳命のこと。

ミシリツの意味については、

皇位を弟に譲ったことから「退く」の意味だとか、

「水を知る」の意だとして、

治水の技術に長けた人物だったから…などなど。

しかしどちらもいまいちしっくり来ないような気もします。

特に「退く」の方は無理矢理感が強い。

その点「水を知る」の方が、

皇位を譲って、自らは司祭となった人物として

頷けるものはあります。

別名に「井」の文字があることにも符号します。

しかし、これは今では意味の分からなくなってしまった

古代の言葉なのではないかという気もします。

そういう言葉は、かなり多いのではないでしょうか?

そして、それらは縄文語だったりするのでは?

地名などには、よく変ったものがあって、

それらはアイヌ語だと言われたりします。

アイヌ縄文人という

単純な図式は成り立たないとはいえ、

列島の北端と南端に

縄文の文化が色濃く残ったのは

自然なことといえるかもしれません。

 

さて、「ミシリツ」がそこまで遡る言葉かどうかは

わかりませんが、

多神社の境内自体が弥生時代の集落遺跡なので、

かなり古い言葉が残っている可能性が

あります。

 

また神八井耳命を始祖とする多氏族のルーツも

定かではなく、

本拠地も、近畿に多神社があるものの

九州地方に多氏系の国造が多く輩出し、

元々はどちらが基盤なのかは不明です。

また、渡来系との見方も頷けるものがあります。

 ※ただ、「渡来人」という言葉。

  非常にあいまいです。

  日本列島全部が渡来人とも

  言えるわけなので…。

  どの時期にどこから来たのかが

  問題になるだけ。

 

御祭神は、境内掲示板によると、

神八井耳命の他に

神武天皇、神沼河耳命、姫御神。

姫御神が媛蹈鞴五十鈴姫命だとすれば、

言わば「神武天皇ファミリー」でありますね。

おっと!しかしもう一名。

太安万侶の名が…。

社殿は、春日大社と同じく、

四棟の本殿が並ぶ形なのに一名多い。

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実は、太安万侶も多氏族で

多神社宮司はその末裔。

お名前も「多さん」です。

1979年に、奈良市内の茶畑から

太安万侶のお墓が見つかったこともあり、

太安万侶は後からご祭神に

列せられたのでは?

と推測しますが…。

 

でも本殿は四棟。

1人あぶれてしまうよ。

でも安万侶氏いましたよ。

拝殿前に立ってました(^◇^)

???

答えは次回。

 

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奈良県・唐古鍵遺跡の絵画土器と印波国。そして方墳。

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※上の写真=田原本町教育委員会発行の小冊子より

 

奈良県田原本町・唐古鍵遺跡では、

弥生時代中期に住居跡などが減りますが、

古墳時代になると、弥生遺跡の上に古墳などが造られました。

この地域の古墳に関する小冊子を購入しましたが、

見ていて気付いたのは、「方墳が多い」ということです。

現在私の調査対象である印波国造の

墓域の一つである成田市公津原古墳群も、

方墳の割合が高い所です。

特に、便宜上分けられた3支群のうちの

瓢塚古墳群に方墳が多いのです。

色々な古墳群を見ると、やはり円墳が多く、

方墳率の高さは、一つの特色と言って良さそう

唐古鍵遺跡と公津原で、

そこの部分が共通しているのを興味深く思います。

やはり、印波国は大和地方でも

この辺りと繋がりがあるのではないか?

これは、墳形の共通性だけから言うのではありません。

「先代旧時本紀」によれば印波国造は多氏族であり、

唐古鍵遺跡とさほど遠くない所に、

近畿での多氏族の本拠地の多神社があるのです。

多神社は、境内自体が弥生時代からの遺跡であり、

周辺も含め多遺跡と言われています。

唐古鍵遺跡との近さから、

そこの居住者は同族か、交流のあった可能性大です。

 〇ただし、多遺跡から出土した絵画土器に描かれた

 建物は、唐古鍵遺跡とは形式の違うものです。

 

復元楼閣に惹かれて、一度は行くべきと思っていた唐古鍵遺跡ですが、

現在の古代史の活動に、

こんなにも重要な意味を持つとは!

 

ここで、唐古鍵遺跡と印波に見出した共通点をまとめてみます。 

①方墳が多い(古墳時代

② 絵や文字を書いた土器が多い。

 (唐古=弥生時代の絵画土器。印波=平安時代の長文墨書土器)

 

また、唐古鍵の弥生絵画土器に龍を表す文様というのがあり、

時代が下るとその図柄は次第に簡略化されて記号化します。

龍の文様に限らず、その時代の土器には

記号のようなものが書かれています。(上の写真参照)

印波国では、記号のようなものが書かれた

平安時代の墨書土器が出土していて、

それは数字の8を横にしたような

「∽」という印

これが、唐古の龍の記号に

ちょっと似ているのです。

「∽」の意味は不明とされていますが、

もしかしてこれは龍を表すのでは?

などと考えたりしています。

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 ※千葉県成田市の遺跡調査報告書より

 

このように土器に記号を書くということも

似ているし、特徴的な記号のひとつが

龍かもしれない…。

しかし、現段階では

多くの遺跡について精査したわけではないので、

何とも言えませんが…。

 

とりあえず、唐古鍵遺跡と印波国に

意外にも幾つかの共通点らしきもの?

を発見したという覚え書きです。

 

  ★「∽」は関ジャニ∞に似てるな。

  この記号入りのグッズを売り出すと

  売れるかな~(^^♪

  関ジャニが人気のあるうちに

  やらないとね。

 

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