『古代史逍遥』dropout

古代史についてのホームページを運営しています。このブログでは、HPに載せられない事柄や、ちょっとした感想などを自由気ままに書いています。もしかするとその中に、真実が隠されているかもしれません(^J^)

奈良県 多神社③ 再び御祭神について。そしてヒメヒコ制のこと。

 

 

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多神社の祭神は、神武天皇神八井耳命、神沼河命、御姫神太安万侶と表示されていますが、大和岩男氏によれば、古い資料では、四柱ではなく、二柱になっているものがあると言います。

詳細は省きますが、それは男神一柱と女神一柱で、そう言うと夫婦神を思い浮かべますがそうではなく、母子神ではないかと言います。

 

母子神と推定するということは、女神の方が年嵩であるということ。

実はこの形こそ、古代の政治と祭祀を考えるときに重要なモチーフです。

いわゆるヒメヒコ制というもの。

巫女である女性の補佐により

王が政治を行う形…。

典型的なのが、今では日本人なら誰でも知っているであろう倭人

卑弥呼と男弟」の関係。

記述から、卑弥呼が鬼道を操り、それに基づき政治の実務を執り行うのは「男弟」と書かれている人物であろうと思われます。

 

邪馬台国の記述が記紀などの

史書に出てこないという謎。

しかし、これは謎ではない。卑弥呼を女王と解釈しているのでそれに該当する女性がいないだけです。

実は卑弥呼は女王では無かった。

魏の使者が女王だと思っただけだと思います。

しかし、それも無理はありません。

当時は巫女の託宣によって政治の方向が全て決まったとすると、あたかも託宣をする巫女が女王のように見えたんでしょう。

その時代が、記紀に名前を連ねるどの天皇の時代かは、ズバリと言えるものではありませんが、「男弟」というのはおそらく「古代の大王の誰か」にあたるはずです。

しかしまぁ、男弟なんて軽く書かれてしまってねー(^_^)

 

この関係を記紀に見える逸話で例に取ると、

倭迹々日百襲姫命崇神天皇

神功皇后仲哀天皇及び応神天皇

倭姫命日本武尊の組み合わせがあります。

邪馬台国九州説と近畿説の論争の決着は、何かの大発見がない限り、永遠につかないのだろうと思いますが、両地域で卑弥呼に相当すると考えられている女性達は、巫女と為政者という形において、その要素を持っていることになります。

年齢的にも、倭迹々日百襲姫命崇神天皇の叔母だと言われていますから、おそらく姫が年上。神功皇后仲哀天皇の年齢関係はわかりませんが、応神天皇の場合は母子となります。

倭姫命日本武尊の場合は巫女と為政者ではありませんが、日本武尊の活躍は、日神に仕える倭姫命の補佐が不可欠でした。そしてやはり、彼の叔母である姫が年上。

倭姫命は、天照大神に仕えるということになっていますが、古代において、

 その神が果たして天照大神だったのかは疑問があるので、敢えて「日神」としました。)

 

平安時代になっても、天皇元服して最初に選ばれる正后は、年上の女性が選ばれる習慣があったようで、それはその名残なのではと考えます。

 

更に、縁者の女性の補佐というのは、沖縄などの南方の風習でもあります。必ず年上の…というわけではありませんが、男子の女の同胞がオナリ神としてその人物を守護するのです。

 

さて、多神社の本来の祭神の二柱は、このような上代からの習慣を引き継ぐものとして興味深いと思います。

では、いつから祭神が増えて、社殿も四棟になったのだろう?

~それも大和氏の著書に書かれていたかもしれないが、忘れてしまい…。

 即調べ直す気力と時間が無いため、申し訳ないがパスします( ̄∀ ̄)

 

そして更に、いつのまにか五柱目のまろちゃんまで増えて…。

宿無しまろちゃん。

しかし実は、多神社に隣接し、境内とも言える場所に太安万侶を祭神とする小杜神社があります。宿無しでは無かった!

ところが、ここも本来の祭神は違うのでは?という疑惑あり。

でも、詳細は次回に致します m(._.)m

 

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多神社② 「まろちゃん」に多氏族カラーを見る?

前回の記事の

多神社拝殿前に立っていた安万侶氏とは?

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太安万侶のキャラクターまろちゃんでした(^◇^)

 

拝殿全景 ↓

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まろちゃん二人いる…

 

はっきり言って、

大変ミスマッチなのですが、

反面こういうのも悪くないなとも思う。

 

そして、以前茨城県大洗町

行った時のことを思い出しました。

大洗町東日本大震災で被災し、

復興のためにアニメとコラボしており、

町中にアニメのキャラクターの

描かれたものが溢れていました。

ガールズパンツァーというアニメ。

大洗町が舞台なんだとか。

大洗磯前神社でも、

境内にアニメキャラの描かれた大絵馬が

掲げられていて、

それが不思議と違和感なかったのです。

寺社仏閣には古いものという

先入観は捨てないといけません。

とはいえ、最近はちょっとやりすぎ感の

ある場合も見受けられ…。

難しいものです "(-""-)"

さて、まろちゃんはどう評価すべきかな?

 

そして、大洗町

少なからず多氏族が関わっている事が

また興味深く思われます。

茨城県東南部は

多氏系の仲国造が開拓した地域。

大洗磯前神社の創建には、

国造の末裔が関わっている。

そこと多神社に

なんだか共通のノリを感じるのは、

偶然ではないのかも。

いわゆる多氏族カラーというものが

あるのでは?

そう言えば同じく茨城県東南部の

鹿島神宮祭礼にも

そんな気分があります。

特に3月の祭頭祭。

祭りの装束自体、

よくある日本の祭りのとはちょっと違い、

明らかに南方系のものですが、

それに皆思い思いの物をぶら下げて、

背中にもしょっている。

伝統的祭風のものもありますが、

それにこだわらず、

今流行りのものや、自分の好きなもの。

今年の祭りでは、

ミニオンズがいっぱいいた。

そして当然の如くアントラーズグッズ。

鹿を頭に被っている人。

その他、キティーやピカチュウ

伝統の継承だけではない、

現代も生きている祭り。

そんな感じがすごく好きだなー。

 

なんだか終盤は、

茨城県の話になってしまった (^J^)

ので、いっそのこと画像も載せよう。

 

鹿島神宮祭頭祭にて

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大洗磯前神社境内(2015年撮影)

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奈良県 多神社① ご祭神のことなどなど

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多神社は、正式名称「多坐弥志理都比古神社」といい、

多氏族の近畿における本拠地です。

印波国造は多氏族なので、

奈良へ行くと真っ先にここへ来ました。

最寄り駅は、近鉄橿原線笠縫駅

駅の南西、飛鳥川のほとりに鎮座します。

弥志理都比古(ミシリツヒコ)とは、

多氏族の始祖である神武天皇の長子神八井耳命のこと。

ミシリツの意味については、

皇位を弟に譲ったことから「退く」の意味だとか、

「水を知る」の意だとして、

治水の技術に長けた人物だったから…などなど。

しかしどちらもいまいちしっくり来ないような気もします。

特に「退く」の方は無理矢理感が強い。

その点「水を知る」の方が、

皇位を譲って、自らは司祭となった人物として

頷けるものはあります。

別名に「井」の文字があることにも符号します。

しかし、これは今では意味の分からなくなってしまった

古代の言葉なのではないかという気もします。

そういう言葉は、かなり多いのではないでしょうか?

そして、それらは縄文語だったりするのでは?

地名などには、よく変ったものがあって、

それらはアイヌ語だと言われたりします。

アイヌ縄文人という

単純な図式は成り立たないとはいえ、

列島の北端と南端に

縄文の文化が色濃く残ったのは

自然なことといえるかもしれません。

 

さて、「ミシリツ」がそこまで遡る言葉かどうかは

わかりませんが、

多神社の境内自体が弥生時代の集落遺跡なので、

かなり古い言葉が残っている可能性が

あります。

 

また神八井耳命を始祖とする多氏族のルーツも

定かではなく、

本拠地も、近畿に多神社があるものの

九州地方に多氏系の国造が多く輩出し、

元々はどちらが基盤なのかは不明です。

また、渡来系との見方も頷けるものがあります。

 ※ただ、「渡来人」という言葉。

  非常にあいまいです。

  日本列島全部が渡来人とも

  言えるわけなので…。

  どの時期にどこから来たのかが

  問題になるだけ。

 

御祭神は、境内掲示板によると、

神八井耳命の他に

神武天皇、神沼河耳命、姫御神。

姫御神が媛蹈鞴五十鈴姫命だとすれば、

言わば「神武天皇ファミリー」でありますね。

おっと!しかしもう一名。

太安万侶の名が…。

社殿は、春日大社と同じく、

四棟の本殿が並ぶ形なのに一名多い。

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実は、太安万侶も多氏族で

多神社宮司はその末裔。

お名前も「多さん」です。

1979年に、奈良市内の茶畑から

太安万侶のお墓が見つかったこともあり、

太安万侶は後からご祭神に

列せられたのでは?

と推測しますが…。

 

でも本殿は四棟。

1人あぶれてしまうよ。

でも安万侶氏いましたよ。

拝殿前に立ってました(^◇^)

???

答えは次回。

 

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奈良県・唐古鍵遺跡の絵画土器と印波国。そして方墳。

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※上の写真=田原本町教育委員会発行の小冊子より

 

奈良県田原本町・唐古鍵遺跡では、

弥生時代中期に住居跡などが減りますが、

古墳時代になると、弥生遺跡の上に古墳などが造られました。

この地域の古墳に関する小冊子を購入しましたが、

見ていて気付いたのは、「方墳が多い」ということです。

現在私の調査対象である印波国造の

墓域の一つである成田市公津原古墳群も、

方墳の割合が高い所です。

特に、便宜上分けられた3支群のうちの

瓢塚古墳群に方墳が多いのです。

色々な古墳群を見ると、やはり円墳が多く、

方墳率の高さは、一つの特色と言って良さそう

唐古鍵遺跡と公津原で、

そこの部分が共通しているのを興味深く思います。

やはり、印波国は大和地方でも

この辺りと繋がりがあるのではないか?

これは、墳形の共通性だけから言うのではありません。

「先代旧時本紀」によれば印波国造は多氏族であり、

唐古鍵遺跡とさほど遠くない所に、

近畿での多氏族の本拠地の多神社があるのです。

多神社は、境内自体が弥生時代からの遺跡であり、

周辺も含め多遺跡と言われています。

唐古鍵遺跡との近さから、

そこの居住者は同族か、交流のあった可能性大です。

 〇ただし、多遺跡から出土した絵画土器に描かれた

 建物は、唐古鍵遺跡とは形式の違うものです。

 

復元楼閣に惹かれて、一度は行くべきと思っていた唐古鍵遺跡ですが、

現在の古代史の活動に、

こんなにも重要な意味を持つとは!

 

ここで、唐古鍵遺跡と印波に見出した共通点をまとめてみます。 

①方墳が多い(古墳時代

② 絵や文字を書いた土器が多い。

 (唐古=弥生時代の絵画土器。印波=平安時代の長文墨書土器)

 

また、唐古鍵の弥生絵画土器に龍を表す文様というのがあり、

時代が下るとその図柄は次第に簡略化されて記号化します。

龍の文様に限らず、その時代の土器には

記号のようなものが書かれています。(上の写真参照)

印波国では、記号のようなものが書かれた

平安時代の墨書土器が出土していて、

それは数字の8を横にしたような

「∽」という印

これが、唐古の龍の記号に

ちょっと似ているのです。

「∽」の意味は不明とされていますが、

もしかしてこれは龍を表すのでは?

などと考えたりしています。

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 ※千葉県成田市の遺跡調査報告書より

 

このように土器に記号を書くということも

似ているし、特徴的な記号のひとつが

龍かもしれない…。

しかし、現段階では

多くの遺跡について精査したわけではないので、

何とも言えませんが…。

 

とりあえず、唐古鍵遺跡と印波国に

意外にも幾つかの共通点らしきもの?

を発見したという覚え書きです。

 

  ★「∽」は関ジャニ∞に似てるな。

  この記号入りのグッズを売り出すと

  売れるかな~(^^♪

  関ジャニが人気のあるうちに

  やらないとね。

 

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奈良県 唐古鍵遺跡2

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「唐古鍵考古学ミュージアム」でお会いしたのは、

女性のボランティアガイドの方でした。

来館した時ちょうど居合わせ、せっかくなのでお願いしました。

とても感じの良い方でしたが、それだけではなく、

本当に歴史や遺跡が好きでやっているという感じに好感を持ちました。

私が、はるばる千葉県から来たというので、

大変歓迎もしていただきました。

やはり、説明を受けながら見て回ると、個々の物の印象が強くなり、

頭に入りやすいものです。

この遺跡では、例の復元されている楼閣をはじめ、

いわゆる絵画土器という絵の描かれた土器の出土が、全国でも一番多い事。

後世に池になっていた水中から出た遺跡なので,

木製品ので保存状態が極めて良いことも、珍しいことだそうです。

そしてこの時代(弥生時代)には、

奈良盆地からは鉄器が一つも出ていないということ等々。

これらのことは、説明書きに書かれていたり、

購入した小冊子に記載されていたりするものもありますが、

一人で見て回っただけでは、なんとなくサラッと見てしまい、

すぐ忘れてしまったかもしれません。

弥生時代の大和地方に鉄器が無いということは、

今読んでいる古墳や鉄の流通に関する本と繋がって、

改めて貴重な情報だったと思っています。

そして、絵画土器が多いということで頭に浮かんだのは、

印旛沼周辺で多く出土する墨書土器でした。

これらは主に平安時代の物なので時代は下りますが、

なんらかの関連はない無いのだろうか?

古代印波国造は多氏族であり、多氏の近畿での本拠地は、

唐古鍵遺跡にもほど近い田原本町の「多」という所です。

当然この北総の地も、近畿地方の影響を受けているので、

田原本辺りから大勢の人が来たかもしれない。

墨書土器自体は各地で出ていますが、

北総で最も特徴的なのは、

絵画と共に文章の書かれた「長文墨書土器」というものです。

「土器に何か書く」という体質

共通点がある気がします。

実は、これ以外でも奈良のこの地域と

印旛沼周辺で共通点を見出したので、ますますそう思えてしまいます。

そのことに関しては別記事で…。

 

その他、ガイドの方の説明によって、強く印象に残ったのは、

二つの甕を用いた井戸の施設

粘土と天然の鉄の作用で自然にできた物を利用した「勾玉入れ」

これは「褐鉄鉱容器」と言って、

粘土の周りに自然に鉄が付着したもので、

これを割って中の粘土を取り出すと、

中が空洞になって、容器として使えます。

外観は錆びた鉄塊のようで綺麗ではありません。

しかし、王はこれに宝物の勾玉を入れていた。

当時貴重な鉄によって自然に出来る褐鉄鉱に

特別な意味を見出していたのではないかと思います。

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         ミュージアムの小冊子より

 

これらも、説明付きで展示されていましたが、

ガイドさんも説明を聞いたことで、

より強く印象付けられました。

 

このように唐古鍵考古学ミュージアムでは、

絶妙なタイミングで良いガイドさんに巡り合いました。

というのは、元々この日この時間に

ここを訪れる予定ではなかったのです。

三日間の奈良滞在のうち、

初日に遺跡とミュージアムの両方に行くつもりでした。

しかし、まず多神社に行き、

例の如く写真を撮りながら長居してしまい、

おまけにどの目的地も、最寄駅から近くなく、

この日はミュージアムに行けなくなってしまいました。

三日目は大神神社に行こうと思っていたので、

ミュージアムにはその前に行ったのでした。

 

このような偶然が重なり、

お会いできたガイドさんは、更に重要なことを教えてくれました。

これから大神神社へ行くというと、

社務所へ声をかけると、三ツ鳥居を拝観させてもらえますよ。」

そうなんです。

三つ鳥居は大神神社独特の鳥居ですが、

私はてっきり、参拝すればどこからか見られるのだろう

と思っていたのでした。

しかし、鳥居は神社の方に案内してもらって

拝殿の奥へ行かなければ見えない物なのでした。

 ※後で大神神社の境内案内を見ると

 三つ鳥居の拝観は、事前申し込みを…と

 小さく書いてあった。

     本当は参拝前に申し込まなければ

 いけなかったのかな?

 そう言えば、私が唐突に申し出たときは

 たまたま手すきの神職さんがいたので、

     すぐに案内して

 もらえたような感じでした。

 やはり、通常は

     あらかじめ申し込んでおくのが

 良いようです。

  しかし神社では、

 唐突の申し出にも親切に対応していただきました。感謝です。

 

少々強引でしたが、

ミュージアムのガイドさんに

教えていただかなければ、

三つ鳥居を拝見しないで帰ってしまったところだったので、

このガイドさんもまた、「神の遣い」に違いないと

密かに勝手に「神の遣い」に認定させて

いただきました (^J^)

 

さて、近鉄田原本駅からミュージアムへの道すがら、

そしてミュージアムの広い窓から

終始見えていた三輪山

この後、この神山が

自分にとってこんなにも存在感を増してくるとは!

この年奈良には何回も来ることとなり、

一度は三輪山周辺だけで三日間。

念願の登拝もして来ました。

出来れば、毎年登拝したい。

 

☆唐古鍵遺跡は、現在周辺の整備が計画されていて

ミュージアムも遺跡の近くに移転するかもしれません。

来年平成30年に完成予定とのこと。見学には、とても

便利になりますね。

 

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奈良県 唐古鍵遺跡

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奈良県田原本町にある「唐古鍵遺跡」は、

以前からずっと気になっていた所です。

ずっと以前何かに載っていたこの復元楼閣を見て驚いたことといったら!

何故なら、学生時代にお遊びでしおりを作り、

中国風の風景のつもりで高い山を描いて

その上に乗せたのが、この楼閣とそっくりだったからです。

1994年に復元されたこの楼閣は、その頃まだ出来ていないし、

楼閣の描かれた土器の発掘されたのも、

もちろん知りませんでした。(というか、まだ発見されていなかったかも

しれない…)

 

「中国風の風景のつもりで」と書きましたがが、

この楼閣の意匠が、中国伝来ということではありません。

当時の無知なる私めが、勝手に「中国風」として描いたのが

たまたまこれに似ていたのです。

中国にはよく屋根の角の部分が反り返ったデザインの

建物がありますが、そのつもりで描き、

反り返りが過ぎてクルンとなってしまったのだと思いますが、

まさか我が国の古代に、このような建物があったとは!

それはさておき、

この建物の屋根に付いている装飾は何なのか…。

最近の多少勉強した私には、なんとなく解りますぞ。

以前の記事でも書いた縄文時代から継承された形。

「蕨手紋」そっくりではありませんか。

また、楼閣には鳥の造形があしらわれていますが、

元になった土器の絵にも、楼上に鳥が描かれているのです。

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復元楼閣では、建物に作り付けられた装飾のように見えますが、

土器の絵は、飛んできた鳥が建物にとまった情景かも…。

これは本物の鳥を呼ぶための建物だったのかもしれません。

祭りのために鳥を呼ぶ建物…

古来、鳥は「天と地を結ぶもの」でありました。

鳥がいかに重視されていたかは、

同じく土器に「鳥装のシャーマン」が

描かれていることでも解ります。

 

実はこの「鳥装のシャーマン」も、

かねてより気になっていたものです。

まず、佐倉市の国立歴史博物館に鳥装のシャーマンの

想像図が展示されていること。

何かの本に、

「鳥装のシャーマンは、天日鷲命を祖とする忌部氏と関わり、

これまた忌部氏の特性である麻を用いて羽を作り、

独特の祭祀を行っていたのではないか?」

というような事が書かれていたからです。

~断っておきますが、この説はある一見解で

必ずしもそうだというわけではなく、唐古鍵遺跡が

忌部氏と関わるという事では全くありません。~

 

この「鳥装のシャーマン」の出所が

まさに、この唐古鍵遺跡の絵画土器だったのです。

漠然と、「弥生時代の鳥装の人…」として認識していましたが、

顕著な発見があったのが唐古鍵遺跡でした。

 

忌部氏と関わる鳥の神を祭神とする神社が

印旛郡栄町にあります。

天日鷲命を祭神とする大鷲神社です。

もしかすると古代において、ここでは鳥装のシャーマンが

活躍したのではないか?などと考えてみたりしています。

 

さて、唐古鍵遺跡の出土品などを展示した

「唐古鍵考古学ミュージアム」では、

更なる重要な発見がありました。

そしてまたまた「神の遣い」の御出現!

ここでは、おじさんでなく女性でした。

長くなりましたので、次回へ続きます。

 

唐古鍵遺跡とは

 弥生時代前期からの遺跡で、

 古墳時代になると、かつての弥生集落の上に

 古墳が作られます。

 

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直感で買ったお皿が内行花文鏡みたいで、傘が勾玉柄と三角紋入りだったこと

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  注:これは骨董品でもなんでもない500円のお皿です⇧

 

~お皿の話~

お皿を一つ割ってしまったので同じくらいの大きさのものを購入しようとしたが、なかなかピンと来るものが無く、買わないでいた。

柄は良いけど、大きさや形状が求めているものとはちょっと違うとか…

日常使いだから高価な物はいらない。

ショッピングセンターの食器売り場、100円ショップ。

以前100円ショップで購入した茶碗が、柄も一目で気に入り、使い勝手も良かったので、安いからダメということは全然無い。

しかし、今回かはなかなかコレッと思うものが無く、ならば「買えば長く使うのだから、ちょっと奮発して予算オーバーでもいいかな?」と思い、自分的には高価な部類に入る品々も見てみたが、やっぱり琴線にふれる物が無かった。

 

そんなある日、良くスーパーの入り口あたりでやっている陶器市?で、これしか無いというお皿に遭遇!

和にも洋にも合うベージュ系。エスニック風の先刻模様の中皿である。

迷わずこれに決め、家で見せて言われたことは「何かが降臨しそうな模様だねー!」

確かに曼荼羅とか、魔法陣とか…

そして後日気付いたのは、中心の柄はまさに内行花文鏡そっくりだった。

そうか、これが即決した理由だったかと納得。

 

~傘の話~

柄入りビニール傘を買った。

何種類かあったが、これも即決。

紺色と朱色でメインは花柄…とだけ認識。

とにかくこの色合いが良かったのでこれにした。

そしてこの傘のデビューは、先日水戸の大井神社へ行った時のこと。

この日は水戸市森林公園にも行き、展望台から朝房山を見たかったが、

都合のつく日はあいにくの雨となった。

しかし雨もまた良し、

下見にもなるしと思い、出発する。

案の定、雨の大井神社境内は、晴れの日とはまた違う趣があった。

思えば雨の時に来たことはなかったので、

やっぱり来て良かったと思う。

そして、新しい傘を開いて石段を登り始めて気が付いた。

傘の一番外側を回る柄は、勾玉の形によく似ていた。

ほぉ 勾玉模様ではないかーと思いながら

数段上ると、今度は勾玉模様の内側に三角紋も見つけた。

三角紋は、以前の記事にも書いたが、

縄文時代から継承され、

装飾古墳に描かれた紋様や

巫女埴輪の衣装の紋様に見出せる。

吉野裕子氏の著作では、それは蛇を表すのだという。

 

勾玉模様と三角紋入りの傘で大井神社の石段を登るとは。

しかも今日のおろしたて。

嬉しいことと思いつつ、

拝殿の写真に傘を入れて撮ってしまったよ🤭

変な写真を撮ってすみません <(_ _)>

 

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そして、いつも動きを感じる拝殿上部の樹木。(今日はヤマタノオロチに見える…)

雨で濡れた石段、一点の紅葉もまた良し。

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 追記: 弁財天の巽神社。社殿の奥に

     今まで気付かなかった弁財天像が

     見えた。今までご神体は鏡だと

     思っていたがその奥に…。

     驚くほど可愛い弁財天様だった。

     しかし、その画像は

                  軽々しくアップしてはいけない気がするので

     報告のみ。

 

やっぱり、雨でも来て良かった!

 

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