大神神社摂社・神御前神社
神御前神社は、
大神神社の摂社ですが、
神社からは少し離れて、
山之辺の道からも反れているので、
この社の存在は不覚にも
知らなかったのです。
御祭神は倭迹迹日百襲姫命。
大物主神の神妻です。
こんな重要なお宮を知らなかったとは!
不覚であります(○_○)!!
さて、それなのに何故ここを知ることが出来たかというと、
前回の投稿で紹介した茶店の「花もり」のご主人に
この近くにある「富士、厳島神社」の事を教えてもらったので訪れたところ、「神御前神社」も発見したのです。
倭迹迹日百襲姫命と大物主神との逸話や、箸墓古墳が彼女の墓所とされていることは、今さら語るまでもないと思いますが、それに関して自分の思うところを二三述べてみようと思います。
これは、なるべく気楽に書こうと思って始めたブログなので、
思い付くままランダムな列挙です(^_^;)
お姿が見たいという姫の願いを聞いて
神は小蛇の姿で
櫛笥の中に入っていましたが、
それを見たヒメは驚いて
悲鳴をあげてしまいます。
神は自分に恥をかかせたと言って、
「大虚(おおぞら)を践(ほ)みて、御緒山に登ります。」←「」内は日本書紀の文章。
この「大虚を践みて」が気になりました。
姫の居室から神は空へとかけあがり、
姿を消したのです。
三輪山の神が、
元々は原初的な太陽神であったことは、
以前も書きましたが、
神話のこの部分の描写は、
太陽が隠れてしまったこと…
すなわち日食を表しているのではないかと
考え始めています。
そこで自ずから脳裏に浮かぶのが、
松本清張氏の示唆的な見解。
日食があり、それが彼女の死に関係しているのではないか…という考えです。
その頃、実際に日食があったようです。
二年続けてあったとも…。
また、一回は日没日食だったとも…。
日没日食!
古代の人々にとって、それはなんと恐ろしいことだったか!
昼の日食なら、太陽は数分で姿を現します。
しかし、日没日食は黒くなった太陽がそのまま沈んでしまうのです。
もう永遠に暗闇が続くのかもしれない恐怖に包まれたことでしょう。
朝になって、いつものように太陽が昇るのを見た人々の喜びは、現代人の想像を遥かに越えるものだったに違いありません。
しかし、その時には日神を祀る巫女はこの世にありませんでした。
何故なら、太陽が消えてしまったことは、
巫女の神祀りの失敗とされるはず。
巫女は責任をとって自害。
松本清張氏は、「殺害されたのでは?」と言っていたとも記憶します。
これは難し過ぎて、正否を断言出来るものではありません。
しかし、松本清張氏の卓見と、神話に日食を思わせる記述があること。
更に、大和政権以前の三輪山祭祀が、太陽神を祀るものだっったとしたら、それは邪馬台国の時代に符合します。
三輪山と神御前神社の社殿
最初、自分は邪馬台国九州説をとっていましたが、現在は近畿説に傾いていることを申し上げておきます。
それは、以下のような理由ですが、上記の日食の件も加わり、それは強化されました。
理由① 魏史倭人伝が書かれた頃の中国地図は正確ではなく、日本列島がもっと南北に長く描かれていたと聞きました。そうすると、これまで再三議論に上がり、その通りに進むと鹿児島沖に突き抜けてしまうとされていた邪馬台国までの行程が謎ではなくなります。伊都国から、瀬戸内海等を経て近畿へと至る行程となります。
理由② 国の都は大陸と行き来しやすい九州が妥当と思っていましたが、連合国である邪馬台国は広範であったはずで、それならば便利だけども侵略もされやすい九州ではなく、主要部はもっと内陸に置いたのではないかと思ったこと。海外との窓口である九州には、ちゃんと国の重要な機関が設けられていました。それが伊都国の一大率です。
※邪馬台国に関しては「女王の都するところ」だけが重要視されやすく、九州ではないと言えば、九州の方はガッカリされるのでしょうが、そんなことはないと思います。九州は海外への窓口として発展し、もしかすると文化的には都よりも先進地域だったかもしれません。現代においても、私は福岡にそういうイメージを持っているのですが、どうでしょうか?
倭迹迹日百襲姫命と大物主神の神話について、また別の感想を書こうと思っていたのですが、邪馬台国の話でとても長くなってしまったので、次回に回します \(__)
ほんとはそっちをメインに書く予定だったんですわ~。
「実は優しい三輪の神」のお話として…。
茅原付近から大神神社大鳥居を見る。
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