『古代史逍遥』dropout

古代史についてのホームページを運営しています。このブログでは、HPに載せられない事柄や、ちょっとした感想などを自由気ままに書いています。もしかするとその中に、真実が隠されているかもしれません(^J^)

ヤマタノオロチ異見。

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古代史を語るとき、

「出雲の謎」というものが必ず浮上して、

色々な方が取り上げて、様々に言及されています。

しかし、これまでタイトルに惹かれて読んだものは、

極端にドラマチックな解釈だったり、

センセーショナルに過ぎたり、

確かに面白くはありましたが、

思い返すと、

出雲の土地そのものについて如何に学んでいなかったかに気付く…

 

極端な解釈と思われるもの。

例えば出雲大社のご祭神が、

拝殿の参拝者に対して正面を向いておらず、

西を向いていることが殊更に誇張され、

大国主命が滅ぼされた側の神だから祟りを恐れ、

参拝時に対面しないようにしてあるとかいうことが言われたりしますが、

実は記紀によれば勝者である武甕槌命を祀る鹿島神宮も同様です。

出雲大社とは逆に北面している社殿のご祭神は、

東向きに坐しておられ、

参拝者は横顔を拝することになります。

御祭神が、南面する社殿で西を向く出雲大社と、北面する社殿で東を向く鹿島神宮は見事な対称を成しています。

この事実からこの両神社の様式は、

大和の政権の確立後に計画的になされたのだと予想できます。

その証拠に、出雲大社鹿島神宮は殆ど同じ緯度の東西にあり、

見事な計画性が感じられるのです。

東の鹿島は昇る日を、西の出雲は日没を象徴しているようです。それ故、御祭神はそちらの方角を向いている。

すごく分かりやすいではないですか?

両地域で元々前身となる神があり、

奉斎氏族が服属後に、中央政権の意向に沿った役割が与えられたのでしょう。

そして、元々の祭神の性格と昇る日のイメージから鹿島の神が華々しい勝者となり、沈む日の出雲の神は一歩退き、冥界を司る神となった。

あるいは常陸地方の方が早い時期に、政権に組み入れられたのかもしれません。

そう考えるならば、紀記の神話はやはり、各地の神々を役者とした創作です。

武甕槌命が勝者で大国主命が敗者になってはいるけれども、実際は両地域で起こったことは、経緯の違いはあれ「地方豪族の服属」という同様のものだったのでは?

実際、「武甕槌命」と「大国主命」という神名は常陸国風土記出雲国風土記には一切登場しないものです。

新しい史書や役割のために新たに創作されたのでしょうか?

因みに、古事記では更に「武甕槌」という表記はせず、一貫して「建御雷」の表記を用いていて、これはまた重要な意味を秘めているのですが、それはまた別の機会に…。

 社殿に関しては、鹿島神宮天智天皇の頃に社殿を造ったという記述が風土記にあり、同じく風土記の記述から元は別の場所だったのではと思われ、出雲大社の方は「大社のある地は新開発の地で、少なくとも古事記の成立以前に出雲大社があったとは思えない」と鳥越憲三郎氏が著書で言っています。

 この鳥越憲三郎氏の著書というのは、講談社学術文庫の『出雲神話の誕生』です。出雲地方の様相や、風土記の舞台となった地についての客観的な分析があり、有用なのですが、最初の刊行が1966年と古く、注意を要します。何故なら、あのセンセーショナルだった荒神谷遺跡の発見前だからです。

発見前と発見後では、見解は大きく変わるはず。

鳥越氏は本著書の中で「出雲は実は地方にどこにでもあったような小国」と述べていますが、荒神谷遺跡等の発見によりそれは訂正されるべきものになりました。

 

また、ごく最近読んだ高山貴久子氏の『姫神の来歴』は、これまでの紀記を元にした見解からはかけ離れた驚くべき内容でしたが、先述の“殊更にセンセーショナルな見立て“とは一線を画したものです。

何よりも著者が出来る限り現地へ足を運んで、机上の理論となっていないことに共感を覚えます。

 

その中の出雲に関する部分では、ヤマタノオロチこそ実は出雲の大王であり、記紀では敢えて怪物ということにされたものであり、クシナダヒメはその王(=神?)に仕える女性だったとする件は、ちょうど自分が以前の記事に書いた「甕に酒を入れて飲ませる部分は、本来は神祀りの光景だった…」というのと符号して、このグッドタイミングに驚きました!

高山氏はクシナダヒメを「出雲の大王の妻」としていますが、もしそれを極論と思うのならば、「大王の傍らで神に仕える巫女」としてもいいのかな?と思います。

そしてその大王を殺害し、出雲の土地を我が物としたのがスサノヲノミコトだというのも、紀記の神話や系図の矛盾点等を考えると非常に納得のいくものです。

実はこれを読む前、「出雲の大王を滅ぼしたのがスサノヲノミコトである」という同様の記述のあるブログを読み、これは一理有ることと思ってはいましたが、そこでは「スサノヲ=徐福」そして次々と名前を変えて「=二ギハヤイ」であるとも言っています。

これは斎木雲州という方の見解を元にしているようですが、斎木氏の著作はまだ読んでいませんので、今のところどう評価すべきかわかりません。読んで見なければと思います。

 

このように同要素を持つ事柄が、奇しくも同じ時期に自分に降りて来ました。

高山氏の著作はお勧めです。興味がおありでしたら是非読んでみて下さい。

ただ、続編の構想もありながら、著者は故人となってしまったようです。

とても残念に思います。

 

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付箋だらけ…( *´艸`)

 

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三輪山。 小雨、霧、幽玄。そして、ヤマタノオロチのこと。

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以前の投稿で、三輪山ヤマタノオロチに言及しましたが、

自分が100%肯定しているわけではありません。

ただ、それも大いにあり得ると思い始めてはいます。

 

今回は、その考えを更に後押しした三輪山の姿を紹介します。

昨年10月、小雨の中の三輪山。JR桜井線三輪駅から撮影。

 

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頂上に霧がかかり、

麓からは、もうもうとした蒸気が立ち上っている。

いつもの穏やかな山容とはまた違った印象となります。

 

そして、麓の樹木が織りなす起伏により

山から何本もの腕が伸びるように見える様子。

これらが相まって、

いくつもの首があるおろちのイメージに限りなく近づくのでした。

 

 

麓の樹木の様子のよくわかる適切な写真が無いのですが、

下の写真で少し様子がうかがえると思います。

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神話のヤマタノオロチの正体は、

氾濫する川という説あり。

敵対勢力がいて、彼等の旗印が龍蛇神だったのだという説あり。

しかし記紀の表現では、山に見えます。

~松柏、背上に生いて(日本書紀

その身に蘿と檜椙生い(古事記

 

筋立てとしては、氾濫する川を、治水の技術によって治める話(舞台を出雲とすると、それは斐伊川)だとするのが最も妥当かと思いますが、

記紀神話が、各地の様々な伝承を継ぎ合わせて創作されているとすれば、

三つの説、どれも正解では?という気がします。

色々な要素を集めて「治水の話」にまとめ上げたというのが真相かもしれません。

 

因みに、酒を用意する行為が、

記紀神話では怪物退治のためのものになってしまっていますが、

本来は、神を鎮める為にお神酒を捧げる祭祀行為が原型にあるのではないかと思います。

そう思うヒントは、常陽芸文センター発行『常陸国風土記』にありました。

信太郡の開拓時の「夜刀の神」の記事に関する解説です。

これに関しては、また後日。

 

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大神神社にて 三つ鳥居を拝観する

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      ~JR桜井線(まほろば線)~

 

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田原本の唐古鍵ミュージアムを後にすると、いよいよ大神神社へ…。

大和八木駅近鉄大阪線に乗り換えて桜井駅まで行き桜井駅からJR桜井線で一駅乗ると三輪です。

本数も少ない二両編成の電車。

三輪駅は、小さな無人駅。

ホームから間近に迫る三輪山の山容がよく見えます。

駅から参道は歩いてすぐでした。

 

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鳥居をくぐり、

樹木に包まれた長い参道を行く。

実は、この鳥居は二の鳥居です。

この時は知らなかったのですが、

一の鳥居は、

もう少し西へ向かった大神教会の所に

あるのです。

その前を通る道は伊勢街道だそうです。

今は、こじんまりした静かな道ですが、

昔はここがメインストリートだったんです。

また、国道に面した巨大な大鳥居…,

これが一の鳥居だと思っている方も

多いと思いますが、

これは昭和になって出来たモニュメント。

でも、この巨大さと威容には

圧倒されます。

実は、この鳥居に関して非常に印象的な出来事があったんですよ。

しかし、それは次に参拝した時の事なので、

また後日。

 

 

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    ~「はじめまして」ではなかった 大神神社

 

参道を進むと、小さな太鼓橋が見えてくる。

その時、また例の感覚が!

ここもまた以前来た事があった!

ここ数年、

歴史的探求の必要に駆られて訪ねる場所で

悉く湧いて来るこの感覚。

デジャヴとは違うのです。

そして、後でだんだんと思い出して来る。

やっぱり錯覚ではない。

以前にも本当に来た事があったと…。

それは、歩みを進めれば進めるほど

確信されました。

太鼓橋の先の短い石段の上から拝殿の屋根が

少し見えてる情景も、

石段を登りきった所にある注連縄鳥居も、

私は知っていました。

大神神社も、ずっと以前に絶対に来た事がある。

でも、それがいつ誰と、どういう経緯で

来たのか全く思い出せません。

ここ数年、こんなことばかり…

頭がおかしくなったのだろうか?@(・●・)@

こんなに記憶力薄弱だったっけ?

しかし、神社や遺跡関係でない記憶は

色んなことをはっきり憶えているんで…

本当にどうなってるのか (@_@)

  前世の記憶ではないか?」とも言われたりしながら…

 

 

さて、それは少し置いといて、

これからが本日の一大イベントなのです。

以前の記事で、

唐古・鍵考古ミュージアムのガイドさんに

三つ鳥居の見学について教えて頂いた事を書きました。

繰り返しますと、

拝殿の後ろにある三つ鳥居は、

社務所でお願いして

案内して貰わないと見る事が出来ないこと。

本当に、この時このガイドさんに会わなければ、

結局三つ鳥居を見ないまま帰ってしまった所でした。

後で、神社で貰った案内を見ると

小さくそういう旨の事が書いてありました。

しかも、予約が必要と…,。

しかし、その時はそんなの知らなかったので、

御朱印を頂いたあと、

ガイドさんの言ったように、

「あの〜  三つ鳥居が見たいのですが…」と

言って見たのです。

社務所の方は、「いま鳥居の案内を出来る人いますか?」と

奥に声をかけてくれました。

ちょうど手すきの方がいたようで、

かなり若そうなお兄ちゃんの神職さんが

出て来ました。

 

その神職さんについて拝殿横の廊下を行くと、

途中に手水があり、そこでお清めをして、

更に奥へ…

そしていよいよ、

最奥の三つ鳥居の見える位置へ…

しかし待てよ。いったいどの位の間見ていて良いのか?

案内してくれた神職さんが待っているわけだし。

よし、一目拝見したら

拝礼して短い神拝詞を唱えるなどして退出しよう…。

うん、それが良い!と思った矢先。

なんと、ちょうど夕方の拝礼の時間に当たったのか、

神主さんが現れ、三つ鳥居の前でご祈祷を始めたのです。

これは、なんと有難い所に遭遇したことか!

ですが、さっき心の中で考えた自分の進退の段取りが

狂ったではないか!

神主さんがご祈祷をしているのに、

柏手打つわけにもいかないし、

祝詞を奏上しているところに、

別の神拝詞を唱える訳にもいかんし…,

ということで、ご祈祷の素晴らしい光景を

しばし呆然と見た後、

あまり長いと案内の神職さんに悪いと思い、

振り向いて「有難うございました」と言うと、

「もう よろしいですか?」

何?! もう少し居ても良かったの〜?

 

こんな感じで、なんかギクシャクと

拝観を終え、

三つ鳥居の簡単な説明をしていただき、

このイベントは終了しました。

 

しかし、たまたま会ったガイドさんに教えてもらい

拝観してみると、ちょうどご祈祷の時間で

本当に偶然が重なり、有難い事でした (^_^)

でも、ここで一言。

やはり、三つ鳥居拝観は、

あらかじめ予約をした方が良いと思います。

今回は、たまたま案内出来る神職さんがいらっしゃったので出来ました。

今回自分は、なんか“唐突に申し出た変なヤツ”だったかも。

だって、ガイドさんの言い方だと

それで良いように聞こえたんだもの〜。

予約云々のことは、

後で神社案内を読んでから知った訳だし、大目に見てください <(_ _)>

 

でも、三つ鳥居の後ろはすぐ三輪山御神体

大げさでなく、山の湿り気を帯びた気が、

ゴォゴォと音を立てて降って来るような…

本当に神々しい場所でした。

もちろん、写真撮影は禁止。

自ら撮影した画像で紹介できないのが残念です。

 

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   ~奥の方に幽かに三つ鳥居の気配が感じられる拝殿~

 

  後で、立てられている幣束が八本なのに気付く。

  やはりヤマタノオロチかっ?!

  と思いましたが、

  その後数回に渡り参拝してみると、

  どうもその時々で幣束の数は

  違うようでもあったので、

  早合点は禁物 (´・ω・`)

  ※三輪山ヤマタノオロチについては、

   前の記事を参照してください。

 

hikona2.hatenablog.com

 

 

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奈良県桜井市・三輪山②

近鉄橿原線笠縫駅を降り、多神社へ向かう時には

すでに東方に三輪山の姿があったはずですが、

ここからはまだ距離もあり、

駅から多神社へは西へ進むので、

はっきりと意識して三輪山を見たのは、

多神社に隣接する小杜神社の東の鳥居からが

最初となるでしょう。

以前記事に載せましたが、その画像を再び…

この日は曇りがちであまり綺麗に撮れてないのですが     (^人^)

 

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(大和岩男氏の著作の情報から、

この鳥居の中にすっぽりと入るのが三輪山だと知っていたので、

東に見えていた綺麗な稜線の山がやはり三輪山だとわかる。)

しかし、ここから見える三輪山は、

まだまだ小さい姿です。

 

そして、翌々日に行った「唐古鍵考古学ミュージアム」。

最寄駅のJR桜井線田原本駅は三輪からも近く、

ミュージアムへは東へ向かうので、

道すがらの前方に三輪山がずっと見えていました。

 

青垣こもれる大和は、

同じくらいの山が途切れなく連なっていますが、

その中でくっきり整った稜線が際立って見える…。

なぜ三輪山だけそうなのでしょうか?

不思議です。

いやだからこそ、古代の人は神聖を感じ神奈備山とした。

大蛇が七巻きした姿。

三輪山はそのようにも言われます。

蛇神ともいわれるのは、

そういった山容にも関わるのかもしれません。

そしてその穏やかに見える山容は、実はそれだけではなかった。

よく見るとその山裾は荒々しくうねりを見せているのです。

以前「ヤマタノオロチ三輪山である。」という言葉を

聞いたことがあります。

その時は「え?なんで?」と思ったのですが、

ヤマタノオロチが天つ神に対する国つ神の象徴だとすれば、

あながち突飛とも言えない。

ましてや、記紀神話が編纂時点で

各地の伝承を継ぎ合わせて創作されたものであるらしいことを

考え合わせると、ますますあり得ることだと思います。

そして何より、実際に見た三輪山の姿。

山裾の樹木の作るうねりが、

まるで複数の腕が町の方に伸びてくるように見える様。

雨天にはもうもうと靄が立ち上り、

晴天でも日によっては、その腕の間に黒い靄がわだかまる。

 

ヤマタノオロチ三輪山なのかどうかはわかりません。

でも、現地に行ってみて、

あり得ないことではないという考えが

少し強くなったのは事実。

 

しかし、こんなことに気付いたのは何回も訪れた後のこと。

一回だけではわからなかったことです。

繰り返し言っている「現地を実際に見る大切さ」「出来れば何回も行くこと」

 

さて、田原本を訪ねた時点では、

そんなことには気づかずに、

ミュージアムの東側に大きく設けられたガラス窓から、

ただただ秀麗な山容を感慨を持って見ていました。

この後、何かわからぬ非常な引力によって、

何回も来ることになろうということも、

この時にはまだ知らない ('_')

 

ミュージアムの窓からの眺めを載せたかったのですが、

写真をとりそびれました。

撮っておけばよかったと後から気付く…

下は別の時のものです。

また、雨天の靄に煙る情景は後の記事に載せたいと思います。

 

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   大神神社摂社・神御前神社から

   神御前神社は、大物主神の神妻ヤマトトトヒモモソヒメを祀ります。

 

 

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奈良県桜井市・三輪山

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  三輪山・山の辺の道、岩壷池付近から

 

2月は、とうとう一つも更新せず…

何かしら多忙であったのもありますが、

いよいよ三輪山について書こうと構えると

何から書いて良いかわからなくなり

手つかずとなっていました ( 一一)

 

しかし、昨年の春に奈良を訪れちょうど一年がたち

そろそろ取りかからなければと思う。

奈良へは一回では足りず数回足を運んでしまいました。

(実際のところ、何回行っても足りないでしょう)

 

大神神社周辺へは毎回訪れて、

三輪山登拝も決行!

様々な経験、情報、感覚が洪水のように溢れて

やはり何から書いてよいのかわからない。

そこは細かいことは考えずに、

時系列で行くのがよいかと思いついたところであります。

 

段取りがようやく付いてきたところで

とりあえずこの回は、何故三輪山か…という事を述べて

次から本番ということとします。

 

私は目下、下総国は印波国の古代史を調べていますが、

そこの開拓者が多氏族と言われていて、

その多氏族の近畿での本拠地が以前の記事で書いた多神社です。

記事にも書いた通り、

多神社は非常に三輪山を意識した位置にあります。

また、多氏族の祖である神八井耳命の母は

姫蹈鞴五十鈴姫命で、

三輪山大物主神の娘とされています。

 

三輪山大物主神は、記紀大国主命とのつながりが語られるため、

それと崇神紀の祟り神の印象が強いのですが、

本来は、奈良盆地の東に位置し、

そこから昇る太陽信仰に関わる神です。

また、大物主神は蛇神ともされ、

蛇と太陽祭祀の関係は吉野裕子氏が著作中で述べています。

 

さて、東国の多氏族の一派である常陸国の仲国造の祖

建借馬命は、天照大神を奉斎したとされますが、

天照大神というのは、時代が下ってからそうなったもので、

元々は自らの氏族の始祖に繋がる三輪山の神を奉じて

東遷したのだろうと思います。

 

こんなわけで、奈良ではまず多神社と三輪山が外せない!

一回はこの目で見なければと思いつつ

失業中(実は昨年は失業中だったのです)の今しか行けないと思い、

何回も行ってしまいました(´・ω・`)

失業中のくせに貯えも減りましたが、

やはりこれはこの時行っておかなければならなかったのだと

確信しています。

 

上述の建借馬命などに関する詳細はホームページを

ご覧下さい。

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千葉県成田市・麻賀多神社本宮の新拝殿

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ここ数年に渡って関心を寄せている印波国造と多氏族。

その印波国造の創建である麻賀多神社

300年ぶりの拝殿の建て替えに、奇しくも時を同じくしたことに驚いています。

 

昨年2月から工事が始まり、

年末に完成しました。

今年の初詣は、この新しい拝殿で参拝しました。

 

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赤い建物は本殿。江戸時代のものです。

 

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拝殿屋根側面。ピカピカです!

 

これに伴いホームページの麻賀多神社のギャラリーに

本宮の画像を追加しました。

とりあえず報告まで…

麻賀多神社の詳細については、ホームページをご覧ください。

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畝傍山北麓・山本町の八幡神社は神八井耳命の墓所なのか?

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前の記事で書きましたが、

ここの由緒によれば、

かつては「八幡」ではなく、「八井神社」と称し、

祭神は神八井耳命だとされます。

日本書紀』の「命が崩御すると、畝傍山の北麓に葬られた。」という記事と

符合します。

 

神武天皇陵の西500m位の所に位置し、

住宅地に隣接した山林の中に鎮座しています。

住宅地が近いとはいえ、

道路からは鳥居も社殿も見えない奥まった所にある極めて小さい神社…

近隣の人でもその存在を知らない人も多いのではないかと思われます。

 

以前、橿原神宮と明日香方面へレンタカーで行ったときに、

近いことはわかっていたので、

付近まで行ってみましたが、

はっきり分からず、

道も狭く入り組んできたので、

レンタカーをどこかにうっかり擦ったりしてはいけないと思い、

断念しました。

今回は近鉄橿原線畝傍御陵前駅から歩くことにしました。

所要時間はおよそ20分というところ。

駅から西へ伸びる道を進むと、

畝傍山の東側に沿って走る道路に出ます。

左へ行けば橿原神宮ですが、

反対の右へ進むと

左手に神武天皇陵への入り口が見えるので、

そこを入ります。

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  神武天皇陵への道

 

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  なんだか杉の葉がやけにデカい! Σ(゚Д゚)

  やっぱり神武天皇だから

  何か違うのか?!

 

そして神武天皇陵が見えてくる。

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しかし、今日の目的は八井神社なので、

御陵の近くまでは行かずに、

このあたりでカクっと左へ折れて、

山道へ入ります。

 

山道の途中に「スズメバチ注意!!」の立て札があり、

ヒヤヒヤしながら通り抜けると、

視界が開けて、住宅などが見えてくる。

神社はもう近いはず…。

Googleマップ頼りに、

その指し示す辺りから、

左側に広がる山林内に入り込み少し進むと、

果たして鳥居が見えました。

Googleマップ感謝!

こういうときは役に立ちます。

時々、最短距離を表示してくれようというあまり

要らぬ近道が表示され、

かえってわかりづらい事がある。

最短でなくていい、ごく普通の分かりやすいルートを!!

 

しかしこの度は、Googleマップのお陰で、

スズメバチ危険地帯を通ったものの、

迷うことなく目的地に着けました(^◇^)

 

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  社号も見当らないひっそりとした境内。

 

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  わりと新しそうな拝殿。

 

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   拝殿と本殿の距離はかなり離れています。

 

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    本殿手前のこれは?

    変形石宮?陽石?

 

ここから北方を望めば、

多神社のある方角です。

神八井耳命が創始し、

祭祀を行った地を見守る位置に

山本町八幡神社が鎮座しています。

 

今では「八幡神社」と呼ばれ、山林に眠る八井神社。

かつての名称と、ご祭神の伝承が

これからも語り継がれることを祈ります。

 

 

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