『古代史逍遥』dropout

古代史についてのホームページを運営しています。このブログでは、HPに載せられない事柄や、ちょっとした感想などを自由気ままに書いています。もしかするとその中に、真実が隠されているかもしれません(^J^)

風神を訪ねて ⑥ 姉埼神社(千葉県市原市)

 

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        西側の鳥居の神額の

        神秘的な字体



千葉県市原市姉崎にある

姉埼神社は

級長戸辺命をお祀りしています。

神社名の「姉埼」の「埼」の文字は

実は違うんですね〜  (・・)

変換候補に出て来ないので

やむなく「姉埼」と

書きました。

本当は

作りの部分の上部が

「立」なのです。

また、この付近の地名は「姉崎」

JRの駅名は「姉ヶ崎」なので、

非常にややこしいですね。

 

さて、

姉埼神社は

上総国に属し

千葉県でも名の知れた神社であり、

姉ヶ崎駅近郊は

古墳地帯でもあるので、

古代史フリークとしては

馴染みの名称でしたが、

最近まで

御祭神についてや、

ご由緒については

全然知らなかったのです  (˙◁˙)

 

しかし、

たまたま隣駅の五井などに

立ち寄ることがあり、

そうだ!

ついでに寄れるではないか。

折角だから行ってみようと思い、

調べたところ

なんと風神・級長戸辺命

お祀りしているではありませんか!!

これはついでとかではなく、

是非行かねばなりますまい  (゚O゚)

 

まずは境内紹介です。

西側の鳥居をくぐって

石段を上がります。

鳥居周辺には

神水の湧く水祖神社(

罔象女神

弁天池と龍宮神社(豊玉姫命

などがあります。

 

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  西側の鳥居

  こちらは二の鳥居になります。

  大通りに面して一の鳥居が

        ありますが、

  撮影するのに距離が取れず

  失敗作となったので

  画像無しです (>_<)

 

この日は台風が近づいて

小雨が降っていたので

全体にスッキリした画像が

撮れませんでした。

しかし台風とは

風神様との

ご対面に

ある意味ふさわしいかもですね (^^♪

 

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 弁天池と龍宮神社

 

 

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  水祖神社

※これは何と読むのが正しいのか?

 「すいそ」?

 「みずのおや」?

 

 

 

 

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  二の鳥居からの石段

 (撮る向きが逆になってしまいました

  これは上からの撮影です)

 

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  石段を上り社殿へ到着です。

う~ん、画像の色悪し 

 



さて、古墳地帯だけに、

神社に隣接して前方後円墳

境内にも小さな古墳が

いくつもあります。

古代この辺りを治めた

海上(かみつうなかみ)族の

古墳です。

そして姉崎神社の宮司家は

その時代から

連綿と継承され、

今でも上海上の末裔が

お勤めになっておられます。

では、古墳については次回  (^_^)ノ

 

☆交通案内☆

最寄り駅=JR内房線姉ヶ崎駅

                  駅より バスあり

                   姉崎台十字路バス停より

                   徒歩約8分

車=一の鳥居脇と境内南側に

          駐車場あり

          南側の駐車場からは

          石段を上らずに

          本殿を参拝することが

          出来ますが、

          その場合

           御神水や龍宮神社へは

         石段を下って行くことに

         なります。

 

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風神を訪ねて ⑤ 立野神社(茨城県常陸大宮市)

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  ※ 境内社の雷迺宮(雷除け小祠)

 

さて、前回は

このお社と関わる久自国造や

近隣の地名に見える「塩子」が

物部鹽古連からの

地名ではないか?

という事を述べ、

いくつかの境内社

紹介しましたが、

今回は

最も印象深かった

境内社について

書こうと思います。

 

この常陸大宮市の立野神社を

訪ねた目的は

風神巡りの他に、

この境内社でもありました。

 

ある八大龍王を祀る神社に関する資料に

ここが載っていたのです。

社名は「雷迺宮」といいます。

「いかずちのみや」と読むのでしょうか?

それとも「かみなり」?

または、「らい」?

「迺」は音読みで「だい」なので

全体で「らいだいぐう」とも読めます。

 

自分的には「らいだいぐう」が

好きですが、

どれが正しいのか

知りたいものです。

ただ、

俗には「雷除けの小祠」と

言われているようです。

 

実は参拝時、

境内の社はみな年季が入り、

社号の消えているものもあって、

どれが八大龍王の宮なのか

わからないまま

とぼとぼと帰ったのです (*_*)

思ったより遠かった

常陸大宮市から

とぼとぼとね~(ToT)/~~~

 

後から色々調べて

このひときわ高いところにある祠が

「雷除け小祠」と呼ばれていることを

知りました。

本殿よりも高いところにある

この社は

当初から気になっていたのですが、

なるほど、

雷に対する社であれば、

高みに位置することも

頷けます。

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  ※上部のお宮が雷迺宮。

  本殿横の境内社の所から

  見上げたところ。

 

 

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  ※ 雷迺宮から下の境内を

   見下ろす。
 

先の資料によれば、

雷迺宮の御祭神は、

龍神、級長戸女命、鳴雷神。

たしかに三柱の神々が

鎮座される作りになっています。

 

さて、

この立野神社で興味深いのは

その複雑な合祀の歴史です。

社伝によれば、、

「大同年間の創始で、

当初は東方1㎞の立野山に鎮座。

後に当地にあった鹿島神社に合祀され、

『立野鹿島大明神』と称した」とのこと。

 

更に別の資料では、

当地には鹿島神社

八幡神社があったが、

水戸藩の一村一鎮守の政策により

鹿島神社一社となり

そののちに

立野神社が合祀されたと言います。

これについて、

八幡神社

藩の政策により

鹿島神社にすり替えられたのでは?

と考える向きもあるようですが、

私は、

元々存在したのは鹿島神社で、

中世の武家社会の中で

それが八幡神

変わっていた。

もしくは

並列するようになったのではないかと

考えます。

 

しかし、

現在の立野神社の御祭神には

鹿島神社の御祭神であるべき

武甕槌神が見当たりません。

だからこそ

前述の

「この地に元々あったのは八幡神社のみだった」説が

出てくるのでしょう。

 

しか~し!

この雷迺宮が

大きなヒントを

くれるのです!

 

八大龍王と言えば、

近世まで

鹿島神宮の境内で

大きな存在として

祀られていたのです。

そもそも

武甕槌神自体が

雷神でもあります。

 

この雷迺宮こそ

かつての鹿島神社

面影を残すお宮のように

思えます (^^)/

 

P.S主祭神と境内の雷迺宮で

ここは風神雷神の社ということに

なります。

話はぶっ飛びますが、

浅草寺を再訪したいと思いつつ

コロナ騒動で

行けていません。

浅草寺と言えば雷門ですが、

あれは風神雷神門なのに

何故か雷神だけが前面に出てしまった

風神としては

トホホな門なのです (>_<)

それはさておき、

その門の

風神雷神像の裏側、

お寺側の方に

天竜金竜像があるのは

ご存知でしょうか?

ちょっとファンキーな天竜さん。

金竜さんは

きりっとした女神さまに見えます。

この両神

私には神道でいうところの

風神・級長津彦命級長戸辺命

見えてなりません。

田無神社の風神様は

今や金龍として

お祀りされていますし。

(田無神社の金龍様については

以前の記事を参考に

してください)

子どもの頃、

毎年初詣には

浅草寺に行っていたというのに、

天竜金竜像は全く知りませんでした。

(この像は新しいものですが、

私が毎年行っていた頃には

もうあったと思う)

数年前に

本当にひさしぶりに参詣し、

初めて天竜金竜像を

拝見しましたが、

雨天で駆け足だったので、

浅草寺界隈には

改めてゆっくり

行きたいのです。

もうちょっとしたら

行けるかなー?

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    浅草寺の金竜像

 

 

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     浅草寺天竜

 

 

 

 

 

 

 

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風神を訪ねて➃ 立野神社(茨城県常陸大宮市)

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以前、茨城県水戸市の立野神社を

紹介しましたが、

常陸の国には

もうひとつ立野神社があります。

常陸大宮市上小瀬に鎮座しています。

上小瀬 351番地)

 

級長津彦命と級長津戸辺命を祀る

常陸国久慈郡延喜式内社で、

延喜式神明帳には

大和国龍田神社と同体なり」

と記されているとのこと。

 ※奈良県龍田大社については

  先の投稿を参照してください (^^)/

 

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久慈郡

律令制の敷かれる以前は

久自国造が治めていました。

しかし、国造の時代の

支配領域というのは

範囲を特定するのが

非常に難しい!*1

久自国造の領域としては

現在の日立市

常陸太田市の大部分と

常陸大宮市

日立市常陸太田市の方は

比較的わかりやすいのですが、

常陸大宮市の部分が

どこまでなのか?

久慈川以東」という説明を

見たことがありますが

ちょっと狭すぎやしないか?

地図を見るとわかりますが、

常陸太田市から

常陸大宮市に入ると

すぐに久慈川にぶちあたります。

実際、立野神社は久慈川以西に鎮座!

式内社があるということは、

少なくともこの辺りまでは

国造の勢力が及んでいたと

思うのです。

 

さて、久自国造は

伊香色雄命の後裔の

物部系の国造です。

勧請元の龍田大社の神官は

かつては立野氏でありました。

(現在はその流れを汲む安村家とのこと)

『大和志料』には

竜野氏と表記されているらしく、

龍田の神を祀る家としては

そちらの方がしっくりくるかも。

その立野氏は

宇摩志麻遅命の末裔とされ、

即ち物部氏の系統です。

物部系の国造の

常陸国久慈郡の立野神社が

式内社として

存在感を示しているのは

それだけ本宮の龍田大社

ご縁が深かったからでしょう。

それゆえ神明帳にも

龍田神社と同体」という

記載が見られるのでありますね。

 

さて、何ゆえ

いつになくこまごまと

氏族の説明などに及んだかというと、

立野神社への道中で

「塩子」という地名を

目にしたからです。

 

「塩子」というのは、

物部鹽子連(しおこのむらじ)に関係するかもしれない

地名なのです。

私の居住地の近隣にも

かつて物部郷と言われていた地域があり

それに隣接して山梨郷。

「やまなし」は

物部一族で応神天皇妃の

物部山無媛(やまなしひめ)との

関連が言われています。

この辺は明らかに

物部氏の痕跡のある地です。

 (千葉県四街道市物井付近)

そこからさほど遠くない所に

「塩古道」(ここは千葉市になります)

というのがあるのですが、

道となると

「塩の運搬に使った道」もあるので、

そうなると

全く関係のない話になってしまう…

鹽子連と山無媛も

あまり詳しい情報が

出てこない人物ではありますし、

「塩古道」についても

まだあまり調べていないので

よくわかりません (*_*)

 

しかし、

常陸大宮市の「塩子」は、

確実に物部鹽子連関連かな?

と思い、ワクワクしたわけであります !(^^)!

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 古色蒼然とした境内社

 

 

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 古色漂う中にも賑やかな境内社 ('ω')ノ

 見れば伊勢神明社

 天照大神は何処?

 祠の中を岩戸に見立てた

 岩戸開きの図かもしれません!

 それにしてはメンバーが…(-_-;)

 

 

 

 

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*1:+_+

風神を訪ねて ③ 龍田大社(奈良県三郷町)

境内社を紹介します。

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       白龍大

 

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     龍田恵美須社

 

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     三宝稲荷神社

     お礼の立札が微笑ましいですね

 

 

中でも白龍社が

印象に残りました。

ご由緒が興味深いですね。

一度姿を隠した白蛇が

別の池に白龍として現れて…

これは何を表しているのだろう?

江戸末期から明治時代にかけての話。

決して古い言い伝えではありません。

 

「2つの場所で

時をずらして

たまたま白蛇が発見された」

という事に過ぎないのかもしれません。

アオダイショウの

アルビノでしょうか?

しかし、

一度現れて姿を消した白蛇が

非常に重きを置かれて

人々が

長年心に留めていたという事実。

それが重要なのだと

思います。

白蛇は

色々な場面で神聖視され、

弁財天の遣いも白蛇ですね  (・┰・)

 

また蛇は龍にも通じ

龍神を祀る当社では

特に心を置かれたのかもしれません。

 

龍田大社ではありませんが、

この白龍社と並んで

興味深いのが

奈良県桜井市

等彌神社の黒龍社です。

あるご婦人が季節外れに

大きな黒蛇を見たことから

創建された境内社ですが、

その年代が

非常に新しいのに

驚かされます。

昭和32年の創建です。

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  黒龍社(奈良県桜井市・等彌神社境内)

    

 

蛇は縄文の昔から

畏れ崇められて来ましたが

時代が下がるにつれ

その神威は薄れて

仏教中心の考えからは

煩悩の象徴とされるに至ります。

現代では

悲しいかな

蛇を気味悪がる人が多く

蛇好きの私としては至極残念 (´•ω•`)

ネズミを食べてくれるといった

実益が薄れてしまった影響も

あるのでしょう。

 

毒を持つ種類もいるので

用心するのは正しい反応だとは

思いますが、

誤解から嫌う人も多いと思うので、

2、3弁明したいと思いまーす。

① 蛇はヌルヌルしていると

思っている人がいるかもしれませんが、

ヌルヌルしていません。

スベスベです。

ちっとも気持ちの悪い感触では

ないですよ (^J^)

②  蛇は自ら人間を襲いません。

噛み付くというのは、

驚いた場合の防衛です。

危険を察知するとまず逃げるので、

草むらを歩く時などは

棒で前を叩きながら歩き、

警告を与えて

先に逃がしてあげましょう。

そして、出来れば長靴等をはいて

万が一噛まれても

大禍が無いようにしたいです。

 

不注意から噛まれてしまって

蛇が悪者になっては

申し訳ないので、

草深い片田舎の神社に

行くことも多い私は

いつも車に長靴を積んでいます。

蛇対策以外にも

これが時々

役に立つんですね〜 (^-^)V

 

自ら対策をせず

都合の悪いものは

排除するという考えは

改めるべき時代が

来ていると思います。

畑の害虫対策で

こんな話を

聞いたことがあります。

退治するのではなく

エサを与えるのだと…

確か畑の一画に

食べられても良い部分を作るとか…

都合よくそこで食べてくれるのかは

わかりませんが…

考え方としては好きだなぁ (•ө•)♡

 

話が逸れましたが、

中世に煩悩の象徴とされ、

気味悪がる人が多い現代においても、

人々の心底には

蛇信仰が隠れているように

思います。

龍神様Loveの人々の多さ!!

また、

蛇を怖がる人とは対照的に

ガチで爬虫類好きの人が

多くいるのも事実。

またまた余談ですが、

上野動物園の爬虫類館が

面白いです。

爬虫類好きが面白がるのは

当たり前ですが、

ここでは人間がまた

面白いのです。

 

見ている人が

尋常でなく熱心に見ている!

それもそうですよね。

ここは爬虫類好きの人しか

来ないのです。

通りがかりに何となく見るのではなく

わざわざ入る人達なのです。

私もその1人でしたが、

私が行った時は

画帳を出して

熱心にスケッチしている人まで

いました。

 

まあ、一般に誤解されがちな

爬虫類と虫に関しては

知って欲しいことがたくさんあるので

ついつい長くなってしまいましたよ。

申し訳ありません

m(_ _)m

 

 

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風神を訪ねて② 龍田大社

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☆御祭神についての考察☆

龍田大社の創始に関して

書かれている主な文献は

神社の風神祭祝詞の他に

もうひとつあります。

それは日本書紀

天武天皇の時代の事として、

「風神を龍田立野に祀り

、大忌神を広瀬河曲に

祀った」

との記述です。

 

崇神天皇の御代の事として

語られる祝詞については、

前の投稿で

神社のホームページを

引用して紹介しました。

 

さて、風神といえども

龍田大社では

その神々を

「天の御柱」「国の御柱」という

御神名でお祀りしています。

「級津彦命」と「級戸辺命」とは

言わないのです。

何故でしょうか?

境内摂社に

龍田比古命と龍田比売命を

祀る社があり、

それらの神々は龍田の地の

地主神だと言います。

その二柱の神と

区別するために

御祭神の名を天の御柱

したのでしょうか?

しかし、龍田比古命と龍田比売命が

風神と認識されているのかどうかは

分かりません。

 

それが今年のコロナウィルス騒動の

渦中にいて、

はたと思い当たったのです。

崇神天皇の時代に

龍田大社が創建された理由のひとつに

疫病がありました。

よくあるような

素朴な農業神として

祀られたのではなかった…

疫病退散を願うのに

何故風神なのか?

そして何故御柱なのか?

想像してみましょう。

風の柱とは

すなわち竜巻ではないのか?

見えない地上の禍を

巻き上げて天に持ち去ってくれる。

そんな願いが込められて

いるのではないか?

 

想像に過ぎませんが、

今年の春

伊豆方面で発生した

竜巻の映像を見て、

思いついたことを

書きました。

この竜巻では幸い

特に大きな被害は

なかったようです(^J^)

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  拝殿の柱に巻き付いた特徴的な注連縄

 

 

感染症の問題が起こって、

はや1年近くが経ちますが、

まだ収束の気配を見ません。

数年前からの

自然災害の増加。

崇神天皇の時代と現在。

もしかしたら

似ているのかもしれません (´・_・`)

 

 

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風神を訪ねて ① 龍田大社(奈良県三郷町)

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産土神が風神様だとわかったので、

やはり、その総本宮

龍田大社

参拝しない訳にはいかない!

 

その頃、年に1、2度は

奈良方面を

訪れていたので、

その年の5月に予定していた

3日間の奈良行きの

最終日に

参拝予定を入れました。

この奈良行きは

数ヶ月前から

予定していて、

訪問場所はもう決まっており、

最終日が少し空いたので、

最終日くらいあくせくせずに

以前から気になっていた

大神神社での

写典をやってみようかな?

と思っていたのです。

(写典とは、祝詞を書写する、

お寺の写経のようなものです。)

しかし、その後に

産土神の発見があり、

最終日の予定は

迷い無く龍田大社行きと

なりました。

写典もいずれやってみたいですが、

本年突然勃発した

感染症騒ぎで

しばらく遠出は

出来なそう (´・-・`)

 

ただ、龍田大社への参拝も

そのうち…とかのんびりしていたら

相当先に伸びてしまったと思うので、

グッドタイミングで

目の前に現れてくれました。

さすが風神!!

突然現れて

そのおかげで予定が決まったり

変更になったりしたのは、

この後にもありました。

面白いですね  ( ᷇ᵕ ᷆ )  

 

また先に触れた

今年2020年のCovid-19感染症

そのおかげ…

とは言いにくいですが、

この騒ぎがあって

古代史を考える上で

初めて気付いた事も

ありました。

なんとそれは

大神神社龍田大社

関わる事であります。

しかし、これを書き始めると

長くなるので

また次回  (^o^)o

 

ここでは龍田大社の概要を

記したいと思います。

 

申し訳ありませんが、

龍田大社ホームページより

コピペです (^^;)

※青字の部分がコピペです。

 

創建

今から約2100年前、

第十代・崇神天皇(すじんてんのう)の時代、

国内に凶作や疫病が流行し

騒然としているなか、

天皇の御夢に大神様が現れ

「吾が宮を朝日の日向かう処、

夕日の日隠る処の

龍田の立野の小野に

定めまつりて…」という御神託を

授けられました。

その通りにお社を造営すると、

作物は豊作、

疫病は退散したと伝えられ、

これが当社の創建とされています。
延喜式・龍田風神祭祝詞より>

 

主祭神

御柱大神

(あめのみはしらのおおかみ)

(別名:志那都比古神

(しなつひこのかみ))
御柱大神

(くにのみはしらのおおかみ)

(別名:志那都比売神

(しなつひめのかみ))


また、摂社として

龍田比古命(たつたひこのみこと)・

龍田比売命(たつたひめのみこと)

のお社が

瑞垣に囲まれた

本殿との同敷地内にあります。

 

ホームページには

次のような記載が

ありました。

 

「龍田」の地名は古く、

初代神武天皇即位の頃まで

さかのぼり、

龍田地区を守護されていた

氏神様と伝えられる

夫婦の神様です。
延喜式神名帳より〉

 

 

龍田大社は最初

現在の社地の

西方にある

三室山に鎮座

されていたそうです。
斑鳩の三室山が

有名のようですが、

ここで言う三室山は、

龍田大社の近くにある山です。

「みむろ山」又は「みもろ山」

と言うと、三輪山

異称として知られていますが、

この名称の山は幾つもあり、

いずれも

神の降臨される

神奈備山となっています。

固有名詞では無いことが

分かります。)

 

また、龍田大社の神様が

御降臨されたのは 

三室山より

更に西へ行ったところの

龍田山にある

御座峰とされています。

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龍田大社と三室山及び龍田山

最寄り駅は、JR大和路線

三郷駅です。

改札を出ると

ユーモラスな風神様が

お迎えしてくれました。

風邪薬○○のキャラクターに

似ています  (^○^)

あの風邪薬、

今はこのキャラクター

使ってないのかな?

 

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産土神探し 番外編 杵築大社(武蔵野市)

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さて、産土神探しで

西東京市の尉殿神社と

田無神社を巡りました。

しかしもう一社

気になるお社があるので

ここに書いておこうと

思います。

 

それは東京都武蔵野市に鎮座する

その名も杵築大社です。

杵築大社!!!

「杵築神社」ではなく

「杵築大社」ですぞ!!

あの出雲の有名なお社と

同名ではありませんか  (⦿⦿)

 

地図を見ていて

目を引いたこの神社は

中央線武蔵境駅にほど近く、

実は

私の生まれた所に最も近い

ある程度の規模を持つ

神社なのでした。

 

御祭神は

大国主命事代主命

いわゆるダイコク様とエビス様の

福の神コンビであります。

創建の経緯は次の通り。

この一帯は三代将軍家光公の

従兄弟の出雲の松江初代藩主

松平出羽守直政公の鷹狩場で

屋敷内に杵築大社(現出雲大社)と

稲荷社両社を創建したのが

始まり…との事。

出雲藩主なので

杵築大社を勧請したのですね  ( ´ω` )/

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さて、

この駅近の

杵築大社を見つけた時は

ここが産土神かな?

と思ったのですが、

結局産土神

尉殿神社と田無神社の

風神様だと判明。

ただ、

この武蔵境の杵築大社にも

何となくご縁を感じるのです。

何故なら、

ここ数年

千葉県北部「印波国」から始めて

古代史を探訪する過程で

出雲系の神には

親しみを持っているのです。

(まァ、昨今は出雲系の神々は

人気がありますからね。

中央政権に覇権を譲った事から、

判官びいきの日本人の

琴線に触れるのかもしれません。)

 

私の場合は

そういうことではなくて、

調査案件に関連のありそうな

古代史の重要地点を巡るうち、

出雲系の神が

予想外に前面に出てきた…というか…

予想外というのは、

印波国の国造は

多氏族なので、

出雲系の神々は

あまり関係ないのではないか?

と、最初は思っていたのです。

 

しかし、

多氏族の祖神の神八井耳命の母は、

三輪の大物主神の血を引きます。

そこで

奈良へ行った時に

真っ先に訪ねたのが、

多神社や唐古・鍵遺跡と共に

三輪の大神神社でした。

ここからは理屈ではありません。

三輪山

私にとって

大変な引力を

持っていたのです。

何故だか分かりません。

その後何回か奈良を訪れましたが、

大神神社には必ず参拝します。

大物主神大神神社周辺の事は

以前にこのブログで

散々書いたので

参考にして下さい)

そして、

三輪山大神神社

調べれば調べるほど

出雲系なのです。

大神神社の御祭神の

大物主櫛甕玉神が

神話で語られるように

大国主命と同神なのかは

わかりません。

また、

三輪山には饒速日命

祀られているのだという人が

いますが、

それも当たっているのかどうか

わかりません。

私見を述べれば

双方とも

そう単純な図式ではない

という気がしますが…。

 

さて

何故だか惹かれる

三輪山の神

それは

最初は関係ないと思っていた

多氏族とも

大いに関係がありました。

先に書いたように

多氏族の祖神が

三輪の大物主神の血筋であること。

更に、

東国へ移住してきた多氏の一派は

大和での氏神であった

三輪の神を奉じて

東遷したらしいと

わかりました。

それが、

現在の鹿島神宮の前身であり、

常陸国風土記

「香島大神」と書かれている神です。

武甕槌神」の神名は

常陸国風土記風土記には

一切出てきません。

その名が文献に出てくるのは

案外新しいのです。

そして東遷した多氏の一派とは

那賀国造の祖の

建借馬命の一団でした。

建借馬命は系図では初代印波国造の

祖父になっています。

(このあたりの経緯は

もう少し詳しく書かないと

よく分からないかもしれませんが、

話題が逸れるので、

簡単にこれくらいで)

 

この鹿島神宮ですが、

私が東国で

最も惹かれる神社であり、

大和の三輪山と同じ引力を

感じるものであります!

数ヶ月に1回は参拝しています。

本当にこれも

理屈ではない!

「同じ匂い」を感じるのであーる!

 

こんな風に

あまり重きを置いていなかった

出雲系の神々も

非常に重要だと

気付いたので、

武蔵野市の杵築大社も

自分と何らかの関係が

ありそうな気がします。

ここは江戸時代の勧請ですから、

おそらく福の神としての

大黒、恵比寿の性格が強く

古代史云々とは

また微妙に

ニュアンスが違うとは

思うのですが…。

 

そんなわけで、

自分の産土神に関して

妄想によるあるストーリーが

浮かんだので

書きます (^_^)ノ

 

꙳★*゚この界隈で

もうじき赤子が生まれると言うので

杵築大社の神々が

「じゃあ俺らが産土ね」

と待っていましたが、

そんな時台風がやってきて

もう少し先に生まれるはずだった

その赤ん坊が

台風の翌日に生まれてしまい、

杵築のダイコクエビス両神

ボヤボヤしている間に

尉殿の風神が

産土神になりましたとさ!

(私が予定日より1週間くらい早く

生まれてしまい、

その前の晩が台風だったので、

きっと台風で驚いて

出てきてしまった

と話してるんだよ…

というのは

子供の頃によく

聞かされた話です  (^J^)

こんなエピソードがあるのも

「私の産土神は風神」と

認定した理由の1つ)

 

さて、

杵築大社の一柱

大国主命ですが、

よく考えたら

田無神社の現在の主祭神

大国主命でしたね  (・o・)

なんだ!いたじゃんオオクニヌシ

忘れててゴメン。

やはり田無神社のオオクニヌシ

印象薄いようで…。

きっと背後で

元々の御祭神の

風神・尉殿大権現(田無神社では

金龍)が

大御所は私達!!

と、睨みを効かせているんでしょう。

またまたドンマイ    オオクニヌシ   (¯―¯٥)

 

 

そんなこんなで

よくわかりませんが、

医療関係とは

全く関係の無い仕事に

就いていた私が

数年前に転職し

医療関係者の

端くれとなりました。

大神神社に何回も

参拝した後の事です。

大物主神大国主命少彦名神

医療関係に関係の深い

出雲の神々のご縁なのかも

しれません  d('∀'*)

 

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上2枚は、境内社の弁財天社

境内社と言っても

杵築大社から武蔵境通りを挟んだ

向かい側です。

以前はひと続きだったものでしょうか?

 

※追記

この後、

あることがわかり、

また驚きなのです。

田無神社の元宮の

尉殿神社(西東京市住吉町)の近くに

尉殿神社の別当時寺だった

宝晃院がありますが、

ここは武蔵境杵築大社の

別当寺でもあったのです。

宝晃院は、

 

杵築大社とは

だいぶ離れているのにです。

生まれた場所に最も近い

この神社が

産土神とも繋がりが

ありました。

資料に、

その理由も書かれていたように

思いますが、

失念しました (-_-;)

近々調べなおして

書き足そうと思います。

 

 

 

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